東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のポルトガル」

リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど

ポルトガル略年表 h06. 大航海時代


  • 1427年、ポルトガルがアゾレス諸島に進出。

  • 1433年、ポルトガル王ジョアン1世が死去。王位を継承したのはドゥアルテ1世だった。このドゥアルテ 1世は、バターリャ修道院(勝利の聖母マリア修道院)に王のチャペル(未完の礼拝堂)を建てようとした人物。但し、この王のチャペルは、完成されることはなかった。

  • 1437年、積極派のエンリケ航海王子は、慎重派のドン・ペドロ王子の反対を押し切り、北アフリカのタンジールに兵を送った。しかし、その遠征は失敗に終わった。

  • 1443年、ポルトガルは西アフリカのアルギンに到達。ポルトガル勢力は、更に西アフリカの沿岸を南下した。

  • 1447年、西アフリカで獲得した金により、ポルトガル王国でクルザード金貨の鋳造が始まった。

  • 1460年、ポルトガルの大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子が亡くなった。

  • 1469年、西アフリカ地域の開発の権利がフェルナン・ゴメスに与えられた。

  • 1471年、タンジールを占領。

  • 1474年、フェルナン・ゴメスに与えた西アフリカ開発の契約が終了。ポルトガル王室は、西アフリカの交易を独占することとした。

  • 1476年、ポルトガル王アフォンソ5世がカスティーリャの王位継承問題に介入し、トロにおいてイサベル(カスティーリャ女王イサベル1世)の軍と戦った。女王イサベル1世はアラゴン王フェルナンド2世と結婚し、やがてスペインのカトリック両王と呼ばれる。

  • 1487年、ポルトガル王ジョアン2世は、バーソロミュー・ディアスをアフリカ南端の探検に派遣した。他方でジョアン2世は、パロ・ダ・コヴィリャンを陸路によりインド・中東に派遣し、情報を収集させている。

  • 1488年、アフリカ西岸を南下したバーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見。彼はインドまで航海を続けようとしたが、乗組員の反対により帰国を余儀なくされた。

  • 1492年、カトリック両王のスペインがグラナダを征服し、イベリア半島におけるレコンキスタ(国土回復運動)が終わった。

    同年、新大陸を発見したコロンブスがリスボンに立ち寄り、ポルトガル王ジョアン2世に謁見している。ちなみに、かつてコロンブスはポルトガルで航海技術に磨きをかけていた。故に大西洋を西に進むことをまずポルトガル王に提案したらしい。しかし、その提案は受け入れられず、やむなくスペインに赴いてその支援を得て、航海に出ることが出来たわけだ。

  • 1494年、トルデシリャス条約が成立。前年にヴァレンシア出身のローマ教皇アレクサンデル6世によって定められた教皇子午線を破棄し、西経 46度 30分より東をポルトガルの勢力範囲、西をスペインの勢力範囲と定めた。

  • 1495年、ポルトガル王ジョアン2世死去。王位を継承したのは、後にジェロニモス修道院(リスボン)を建てることになるポルトガル王マヌエル1世だった。

  • 1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマ指揮下の 4隻の船がリスボンを出発した。

    同年11月22日、ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊は喜望峰を越え、アフリカ東岸を北上し始めた。

  • 1498年5月20日、ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊がインドのカリカットに到達した。(同じ年にダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を描いている。)

  • 1499年8月、ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊がリスボンに帰還した。

  • 1500年、ペドロ・アルヴァレス・カブラル指揮下の12隻の艦隊がリスボンを出発。

    同年4月22日、カブラル艦隊がブラジルを発見した。

  • 1503年、ポルトガル王マヌエル1世がスペイン南部アンダルシア地方の街セビリアを訪れた。帰国後のマヌエル1世はセビリアに絵柄タイルを発注している。その絵柄タイルはポルトガルのアズレージョに影響を与えたらしい。

  • 1505年、ポルトガルの初代インド総督となったフランシスコ・デ・アルメイダは、軍事的な拡張政策をとり始めた。

  • 1509年、ポルトガル艦隊がエジプト・トルコの連合艦隊を撃ち破った。更にポルトガル艦隊は紅海の入口にあるソコトラ島を占領し、紅海経由での香辛料の取引を支配下に置くことに成功した。

  • 1510年、2代目のインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケがインドのゴアを占領。ゴアはポルトガル領インド帝国の首都となった。

  • 1511年、ポルトガルがマラッカを占領。マラッカを拠点として極東への進出が可能となった。

  • 1519年、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(カール5世)が神聖ローマ帝国の皇帝となった。カルロス1世はポルトガル王女と結婚し、やがて生まれたスペイン王フェリペ2世がポルトガル王位を継承することになる。

  • 1521年、スペイン王カルロス 1世の支援を受けたマゼラン艦隊が香料諸島に到達。その後、世界周航を成し遂げた。

  • 1529年、スペインのカルロス 1世とポルトガルとの間でサラゴサ協定が成立した。その協定により、ポルトガルがスペインに35万ドゥカートを支払うことを条件に、スペインは香料諸島に関する権利を放棄することが定められた。

  • 1538年、オスマン・トルコが紅海沿岸のアデンを占領。香辛料取引の紅海ルートが再開され、やがてヴェネツィアによる香辛料取引の復活につながった。

  • 1543年、3人のポルトガル人が日本の種子島に漂着した。(ポルトガル人は既に1541年に日本に来ていたとも。)

  • 1557年、ポルトガルは中国のマカオを獲得した。

  • 1570年、次第に衰退していく香辛料取引のポルトガル王室による独占を諦め、契約によって民間商人に委ねる方式を採用した。


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