|
|
|
|
|
東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「春のポルトガル」
リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
ポルトガル略年表 h05. カスティーリャとの戦い
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
- 1348年、ポルトガルにおいてペスト(黒死病)が猛威をふるい始めた。フランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユにペスト(黒死病)が上陸したのは、その前年のことだった。
- 1355年、イネス・デ・カストロの処刑が行われた。
ポルトガル王アフォンソ 4世の王子ドン・ペドロは、自分の妃であるコンスタンサの女官イネス・デ・カストロとの間に3人の子供をもうけた。
コンスタンサもイネスもカスティーリャの出身であり、カスティーリャとの関係がこじれることを懸念した父王アフォンソ 4世は、イネスの処刑を命じたもの。
- 14世紀後半、100トン以上の船を建造する商人の為に、王領地の森林から木材が供給された。
- 1369年、ポルトガル王フェルナンド 1世は、アラゴン王国やグラナダのナスル朝(世界遺産アルハンブラ宮殿で名高い)と共にカスティーリャの王位継承問題に介入したが失敗。
- 1372年、ポルトガル王フェルナンド 1世は、百年戦争でフランスと戦うイギリスと同盟し、カスティーリャと戦いを交えた。
フランスと同盟していたカスティーリャ王エンリケ 1世は、リスボンを焼き討ちした。
- 1381年、ポルトガル王フェルナンド 1世が再びカスティーリャに戦いを仕掛けたが再び失敗。
- 1383年、ポルトガルとカスティーリャとの間で講和条約が結ばれた。
しかし、この条約により、ポルトガル王フェルナンド 1世の王位継承権者である王女ベアトリスは、カスティーリャ王フアン1世と結婚することが強制された。その年の秋、ポルトガル王フェルナンド 1世が死去。カスティーリャ王ファン 1世の王妃となっていたベアトリスがポルトガルの女王となった。
しかし、カスティーリャの支配下に入ることを怖れる民衆は、1355年に処刑されたイネス・デ・カストロが生んだ王子ドン・ジョアン(先王フェルナンド 1世の異母弟に当たる)の即位を望んだ。
その結果、ポルトガル国内は、親カスティーリャ派のベアトリス女王支持者と反カスティーリャ派のドン・ジョアン王子支持者とに二分されることとなった。
- 1384年1月、ポルトガル女王ベアトリスの夫でもあるカスティーリャ王フアン1世がポルトガルに侵入。しかし、ドン・ジョアン支持者の抵抗を受けたカスティーリャ軍にとって、戦いは不利に展開した。
- 1385年5月、コインブラで開催された国民議会コルテスに於いて、王子ドン・ジョアンに王位が与えられ、ポルトガル王ジョアン1世となった。以後、ポルトガルはジョアン1世を始祖とするアヴィス王朝によって統治されることとなる。
- 1385年8月、イギリス軍支援を受けたジョアン1世は、アルジェバロッタにおいてカスティーリャ王フアン1世の軍を撃ち破り、アヴィス朝ポルトガル王国の独立を確保した。
- 1388年、アルジェバロッタでの勝利を聖母マリアに感謝するジョアン1世によって、バターリャ修道院(勝利の聖母マリア修道院)の建設が命じられた。
|
|
|
|
|
ヨーロッパの歴史風景
このサイト「ヨーロッパ三昧」には、下の姉妹サイトもあります。ヨーロッパに興味のある方は寄り道してくださいね。
|
このサイト「ヨーロッパ三昧」の姉妹サイト「ヨーロッパの歴史風景」。ヨーロッパ各国の歴史に重点を置いてある。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
Copyright (c) 2001-2012 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。
このサイトの運営は、あちこち三昧株式会社が行います。
|