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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「バルセロナ街歩き (スペイン)」
カタルーニャの歴史とガウディ
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バルセロナのピカソ美術館
スペインの街バルセロナで過ごす旅の3日目。頑張って早起きをしてホテルを出る。というのも、今日の最初の目的地はピカソ美術館なんだ。たぶん、開館前から観光客が行列を作るに違いない。
ところが、ピカソ美術館の入り口(上の画像)に到着してみると、行列も大したことはない。今日はクリスマス・イブだから、キリスト教徒の皆さんは観光なってしないで、自宅で、あるいは教会で過ごしているのかもしれないね。
ところで、何故にピカソ美術館がバルセロナにあるのか。それはピカソが少年時代を過ごした街がバルセロナだったから。ピカソは西暦1881年にスペイン南部アンダルシア地方の街マラガで生まれた。そして西暦1895年、ピカソ一家はバルセロナに移ってきた。西暦1897年にピカソはマドリッドの学校に入ったんだけど、その翌年にはバルセロナに戻ってきている。
その後のピカソはバルセロナに住み続けた。時にフランスの首都パリを訪れてはいたみたいだけどね。そんなピカソがパリに移り住んだのは西暦1904年のことだった。そして西暦1936年、スペイン内戦が勃発。その惨劇がピカソに「ゲルニカ」を描かせたんだ。
やがてスペイン内戦はフランコ総統の勝利によって終結。でも、ピカソはスペインには戻らなかった。「ゲルニカ」のスペインへの返還も拒否した。西暦1973年、ピカソがパリで亡くなった。スペインの独裁者フランコ総統が亡くなったのは、その2年後のこと。その後、スペイン国王フアン・カルロス1世の下で民主化が進み、ようやく「ゲルニカ」がスペインに返還された。
そんなわけで、ピカソが少年時代を過ごしたバルセロナ市がここにピカソ美術館をオープンしたのが西暦1963年のことだった。といっても、この美術館にピカソの大作あるいは代表作が展示されているわけじゃない。むしろ、彼の少年時代あるいは無名時代の作品が展示されている。その多くは、ピカソ自身あるいは彼の両親が寄贈したものなんだそうな。
でも、ピカソの少年時代あるいは無名時代の作品もとっても面白かったよ。いや、彼の小学生時代の作品でさえも、ピカソが天才だということを感じさせるものがあったね。ピカソに興味のある方には、そうでなくてもバルセロナに来たならば、お薦めの美術館だな。
バルセロナの海の聖母マリア教会 (サンタ・マリア・デル・マール教会)
ピカソ美術館を見終えたら、バルセロナの旧市街ゴシック地区の南東あたりにやって来た。目指す建物はどこかな ・・・ 。
迷った挙句にたどり着いたのが、上の画像にある海の聖母マリア教会。あるいは、サンタ・マリア・デル・マール教会。港町として長い歴史を持つバルセロナの船乗りたちの心の支えとなってきた教会なんだそうな。
バルセロナの守護聖人たる聖エウラリアと海の聖母マリア教会
バルセロナの大聖堂のページでも少し触れたんだけど、バルセロナの守護聖人となっている聖エウラリアは、西暦304年に古代ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスの命によるキリスト教徒に対する迫害の際に殉教したそうな。(古代ローマ帝国では皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害以来、多くの殉教者が出ていた。ローマのサン・ピエトロ大聖堂も殉教した聖ペテロの墓の上に建てられたとか。)
ところが、西暦711年にジブラルタルからイスラム教徒が上陸して来た際に、キリスト教徒の尊崇を受けていた聖エウラリアの遺骸はどこかに隠され、行方がわからなくなってしまったらしい。
数百年後、13世紀になりバルセロナの海辺の洞窟で聖エウラリアの遺骸が発見された。その遺骸は大聖堂に葬られた。故にバルセロナの大聖堂は、正しくは聖エウラリア大聖堂と呼ばれる。他方、聖エウラリアの遺骸が発見された洞窟の場所にも教会が建てられた。それがこの海の聖母マリア教会なんだそうな。その建設が始まったのは西暦1329年、完成は西暦1459年とされている。
そんなわけで、今でこそ海の聖母マリア教会から海辺までは歩いて10分ほどの距離があるんだけど、かつては教会の目の前まで波が打ち寄せていたらしい。また、聖エウラリアの遺骸が納められていた石棺は、海の聖母マリア教会の洗礼盤になっているんだそうな。
バルセロナの戦士たちと海の聖母マリア教会
バルセロナの船乗りたちの心の支えとなっていた海の聖母マリア教会なんだけど、かつてのカタルーニャ艦隊の兵士たちもこの教会で聖母マリアに祈りを捧げたらしい。彼らは、海戦の際には「聖母マリア(サンタ・マリア)」と叫んで突撃したんだそうな。(下の画像は海の聖母マリア教会の中で見た聖母子像。)
18世紀の初頭のことなんだけど、スペインの王位継承をめぐってスペイン継承戦争が起こっている。その戦争末期の西暦1714年、抵抗するバルセロナをブルボン家のスペイン王フェリペ5世(フランス王ルイ14世太陽王の孫にあたる)が攻略した。その戦いでバルセロナを守って戦死した人々も、この海の聖母マリア教会に埋葬されているんだそうな。
余談ながら、中世のバルセロナでは製鉄が盛んだった。その鉄を利用して、大砲も製造されていたらしい。そして西暦1463年、重さ 800トンを越える巨大な大砲がバルセロナで作られた。名づけて聖エウラリア。ところが、その巨砲を発射したところ、1発目で砲身が破裂しちゃった。聖エウラリアは幻に終わっちゃったんだ。
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