東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のスペイン」

トレド、マドリッド、セゴビアを周り、歴史とバルと闘牛を楽しんだ

05. マドリッドのプラド美術館

スペインの首都マドリッドにあるプラド美術館

スペインの古都トレドを出発したバスは、セルヴァンテスの小説「ドン・キホーテ」の舞台となったラ・マンチャの荒野を走り、やがて首都マドリッドに到着した。私たちがバスを降りたのは、スペインの誇るプラド美術館(下の画像)の前だった。

スペインの首都マドリッドにあるプラド美術館の外観

西暦1819年に王立美術館としてオープンしたこのプラド美術館には、ハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世神聖ローマ帝国皇帝カール5世あるいはスペイン王カルロス1世の息子)とその孫のフェリペ4世が集めた絵画を中心とする多くの美術品が展示されている。

但し、このプラド美術館の建物は、元々は自然科学博物館の為にスペイン王カルロス3世が西暦1785年に建てさせたものらしい。彼はスペインの王位を継承する前はナポリ王だったんだけど、母親の実家であるファルネーゼ家のコレクションを継承し、ポンペイ遺跡の出土品アレクサンダー大王のイッソスの戦いのモザイク画もある)をも併せて、彼の収集品が今のナポリ国立考古学博物館の展示品の中心となっているんだそうな。

このプラド美術館には、ベラスケスやゴヤなどのスペインの画家の作品、エル・グレコなどのスペインで活躍した画家の作品が多いのは言うまでもない。でも、他にもスペイン王家が支配していたネーデルラント(今のオランダやベルギー)の画家の作品も多いらしい。特にハプスブルク家のネーデルラント総督に仕えていたバロックの画家ルーベンスの作品は、100点近くあるらしい。

プラド美術館で見たベラスケスの「女官たち(ラス・メニナス)」

西暦1599年、画家ベラスケスはスペイン南部アンダルシア地方の街セビリアで生まれた。やがて画家となったベラスケスは、西暦1622年とその翌年にマドリッドを訪れている。そこでスペイン王フェリペ4世の宮廷の画家となり、以後は王家の人々の多くの肖像画を描いている。

西暦1628年にはアントワープからマドリッドにやって来た画家ルーベンスと知り合い、その影響を受けている。その翌年にはバルセロナからイタリアに向けて旅立っている。イタリアでベラスケスはヴェネツィアローマナポリなどに滞在したらしい。

西暦1631年にイタリアからマドリッドに戻ってきたベラスケスは、その後もスペイン王家の人々の多くの肖像画を描いている。そして西暦1657年に完成させたのが「女官たち(ラス・メニナス)」(下の画像はその部分)だった。

スペインの首都マドリッドにあるプラド美術館で見たベラスケスの「女官たち」(部分)

西暦1660年にはスペイン王女マリア・テレサとフランス王ルイ14世太陽王との婚礼の準備に関与しフランスに赴いている。その年の夏、マドリッドに戻ってきたベラスケスは病に倒れて亡くなっている。61歳だった。

ついでながら、ベラスケスが婚礼の準備をしたルイ14世とマリア・テレサの孫であるアンジュー公のスペイン王フェリペ5世としての即位をめぐってスペイン継承戦争が起きている。まさかそんなことが起こるとはベラスケスは思ってもみなかっただろうね。

プラド美術館で見たゴヤの「カルロス4世の家族」

ベラスケスと並んでスペインを代表する画家ゴヤは、西暦1746年にサラゴサ近くの村で生まれた。やがてゴヤはサラゴサで絵を学び始めた。その後、西暦1763年には首都マドリッドに赴き、サン・フェルナンド美術アカデミーに入学を希望したものの受け入れられず。西暦1766年にも再度希望したものの入学することは出来なかった。

西暦1770年にはローマに渡り、イタリアの美術を学び、またイタリアでの美術コンクールに入選したらしい。その後、ゴヤはサラゴサに戻り、首都マドリッドに移ったのは西暦1773年、彼が27歳の時だった。

その後のゴヤは、食べるためにタペストリーの下絵を描く仕事をしていた。でも、その仕事が彼を成長させたという説もある。そして西暦1780年、三度目の正直ということか、ゴヤはサン・フェルナンド美術アカデミーに入学を許されたんだ。彼は36歳になっていた。(スペインを代表する画家も長い下積みで苦労していたんだね。)

イタリアで学んだフレスコ画の技法もゴヤを助けたらしい。教会からのフレスコ画の注文は、ゴヤの暮らしを支えたんだそうな。そんなゴヤがスペイン王カルロス3世のお抱えの画家になったのが西暦1786年のこと。そのおかげで決まった給料をもらえる身となったゴヤは、ようやく絵の制作に専念できるようになったんだそうな。

スペインの首都マドリッドにあるプラド美術館で見たゴヤの「カルロス4世の家族」(部分)

その2年後にはカルロス3世が亡くなってしまったんだけど、次のスペイン王カルロス4世は西暦1789年にゴヤを宮廷画家に任命したんだ。そして西暦1800年に描いたのが、上の画像にある「カルロス4世の家族」だね。

このスペイン王カルロス4世、とっても体格が良く、若い頃には農民たちとレスリングをするのが大好きだったらしい。でも、知的な面では問題が無かったとは言えず、むしろ馬鹿がつくほど正直だった。政治も王妃とお気に入りの大臣にまかせっきりで、狩猟に打ち込んでいたんだそうな。上の絵にも雰囲気は出ているけど、つまりはお人好しだったということかな。

ゴヤの「マドリッドの1808年5月3日」

その頃、隣国フランスでは、とんでもない歴史の嵐が猛威をふるっていた。ゴヤが宮廷画家となった年、つまり西暦1789年にはフランス革命が勃発している。その4年後にはルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されている。そして西暦1804年にはナポレオンがフランス皇帝となった。

のんきな父さんカルロス4世のスペインも隣国の嵐に巻き込まれた。ヨーロッパを席巻する勢いのフランスと同盟したんだけど、西暦1805年にはトラファルガーの海戦でネルソン提督のイギリス艦隊に敗北。フランス艦隊と共にスペイン艦隊は壊滅しちゃったらしい。

そして西暦1808年、アランフェスの人々がカルロス4世に対して暴動を起こした。やむなくのんきな父さんは退位し、息子のフェルナンド7世にスペイン王位を譲ったんだ。ところがフランス皇帝ナポレオンは容赦しない。即位したばかりのスペイン王フェルナンド7世をも退位させ、ナポリ王となっていた兄ジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世として即位させた。

スペインの首都マドリッドにあるプラド美術館で見たゴヤの「マドリッドの1808年5月3日」(部分)

そんなフランスによる支配に対してスペインの人々が立ち上がった。それを押さえつけようとするフランス軍。その様子を描いたのが、上の画像にあるゴヤの絵「マドリッドの1808年5月3日」だった。この絵もマドリッドのプラド美術館で見ることができるんだ。

その後、スペインの人々は皇帝ナポレオンのフランス軍に対してゲリラ戦を続け、やがてフランス皇帝ナポレオンが敗北し、スペイン王フェルナンド7世が復位する。でも画家ゴヤはやがて混乱の続くスペインを逃れ、フランスの首都パリを経てボルドーに移り、そこで西暦1828年に82歳で亡くなったんだそうな。


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