東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
冬景色のトルコ
(1997年12月 - 1998年1月)
略年表 - 06.
オスマン・トルコの台頭
- 1299年頃、小アジア(アナトリア)の北西部に、オスマンという名の指導者に率いられたガーズィー(信仰の戦士)の集団が台頭した。
オスマン・トルコ朝の始祖といわれるオスマンは、トルコ系遊牧民オグズ族カユ部族の出身だと言われている。そのオグズ族はトルクメン族に極めて近い関係にあるらしい。
- 1301年、オスマンの軍が初めてビザンティンの軍を破った。
- 1303年、形ばかりながらも存続していたルーム・セルジューク朝が滅亡した。以後、小アジア(アナトリア)においては、分裂と戦乱の時代が続く。
- 1326年、オスマンの後継者オルハンがブルサの街を攻略し、自分の君候国の首都とした。
オルハンの父でありオスマン朝の創始者でもあるオスマンの遺体は、このブルサに埋葬された。
- 1327年、モンゴル系イル・ハンによって派遣されていた総督ティムルタシュがエジプト遠征に出かけている間に、その副官でウィグル人のエルテナが反乱を起こし、中央アナトリアに独立国を建設した。
同じ年にモンゴル勢力に打ち勝ったトルコ系カラマン君候国が独立を果たした。
- 1328年頃、オスマン・トルコにおいて初めて貨幣が鋳造された。
- 1330年、オルハンを支配者とするオスマン・トルコがニケーアの街を征服した。
その頃、オスマン・トルコにおいては、イェニチェリ(その意味は「新軍」)が編成された。当時のイェニチェリ部隊の兵力は約1,000人。15世紀後半のメフメット2世の頃のイェニチェリの兵力は12,000人、16世紀のスレイマン大帝の頃には20,000人に達した。
当時のその他の兵力としては、スィパーヒなどの正規騎兵部隊、アクンジと称する不正規騎兵部隊、アザブと呼ばれた不正規歩兵部隊があった。
- 1341年、ビザンティン帝国のアンドロニコス3世が死去。パライオロゴス家と帝位を争うカンタグゼノス家のヨハネス(後の皇帝ヨハネス6世)は、オスマン・トルコのオルハンと同盟した。
- 1346年、ビザンティン帝国のカンタグゼノス家の皇女テオドラとオスマン・トルコのオルハンとの婚姻が成立した。
- 1354年、カンタグゼノス家の手引きにより、オスマン・トルコがヨーロッパ側に拠点(ガリポリなど)を確保。
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