東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
冬景色のトルコ
(1997年12月 - 1998年1月)
略年表 - 05.
セルジューク・トルコ
- 1035年、トルコ系セルジューク族がガズニ朝からホラーサーンを獲得した。
- 1038年、セルジュークがニシャプールを獲得した。
- 1040年、トルコ系セルジューク族がガズニ朝を攻撃し、ガズニ朝はアフガニスタン・インドに後退した。
- 1042年、セルジュークがホラズムを征服した。
- 1050年、セルジューク・トルコがイランのイスファファンを占領し、翌年にはそこに都を置いた。
- 1055年、アッバース朝カリフの要請により、セルジューク・トルコの支配者トゥグリル・ベグがバグダッドに入城し、その保護を受けたカリフからスルタンの称号を与えられた。
- 1064年、セルジューク・トルコがアルメニアに侵入し、更に小アジア(アナトリア)へと進んだ。
- 1071年、マンズィケルトの戦(あるいは、マラズギルトの戦)において、大セルジューク・トルコ軍がビザンティン帝国軍を打ち破った。
以後、トルコ人が小アジア(アナトリア)になだれ込み、先住の人々を圧迫・同化し、地域のトルコ化が進むこととなった。
- 1077年、セルジュークの王族の一人が、小アジア(アナトリア)にルーム・セルジューク朝を樹立した。
- 1080年、小アジア(アナトリア)の南東部に小アルメニア王国が成立した。
- 1081年、アレクシオス1世コムネノスがクーデターによってビザンティン皇帝となった。
彼は内訌を続ける帝国の支配者層を纏め上げ、帝国の滅亡を防いだ。
- 1092年、セルジューク・トルコのスルタンであるマリク・シャーが死去。後継者争いによって分裂したセルジューク朝が弱体化した。
- 1096年、アレクシオス1世コムネノスの求めに応じて、第1次十字軍が聖地に向かった。
- 1097年、十字軍がトルコ人の手からコンヤ(イコニウム)を奪回した。
- 1134年、ルーム・セルジューク朝が、同じくトルコ系のダニシメンド朝からアンカラを奪い取った。
- 1155年、ビザンティン皇帝マヌエル1世がイタリアに遠征軍を派遣した。ビザンティン帝国軍は、イタリアの東岸を占領した。
しかし、神聖ローマ帝国とヴェネツィアによる反撃を受け、ビザンティン軍はイタリアから撤退した。
その頃、トルコ系オグズ族の人々が、中央アジアからセルジューク朝の支配下の土地に移動してきた。
- 1162年、ルーム・セルジューク朝の支配者クルチ・アルスランが、コンスタンティノープルにおいて、ビザンティン皇帝マヌエル1世に臣従した。
- 1169年、十字軍と戦ったサラディン(サラーフ・アッディーン)によって、アイユーブ朝が建設された。アイユーブ朝は、一時期はシリアとエジプトを支配していた。
- 1180年、遠征を繰り返していたビザンティン皇帝マヌエル1世が死去。彼の時代にビザンティン帝国の領土は拡大していたが、他方で疲弊を示し始めていた。
- 1190年、第3次十字軍がコンヤを占領した。
- 1194年、大セルジューク・トルコが滅亡した。
- 1204年、ヴェネツィアに導かれた第4次十字軍がコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建国した。
他方、ニケーアにおいて、ビザンティン勢力を代表するテオドロス1世ラスカリスが、十字軍によるラテン帝国の勢力拡張に抵抗を続けた。他方、トレビゾンドにもビザンティン勢力が独立国を築いた。
- 1237年、ルーム・セルジューク朝の支配者カイクバード1世が死去。彼の統治下にルーム・セルジューク朝は最大の版図を築いた。
後にオスマン・トルコの創始者となるオスマンの父エルトゥグルルは、カイクバード1世の部将だったとも伝えられている。ビザンツに対するセルジュークの勝利に貢献したエルトゥグルルは、小アジア(アナトリア)北西部を流れるサカリヤ川中流の土地を与えられたらしい。
- 1241年、ルーム・セルジューク朝の支配に対し、トルクメン族が反乱を起こした。
- 1243年、ルーム・セルジューク朝軍がキョセ・ダウの戦においてモンゴル軍に敗れ、属国化した。
以後、小アジア(アナトリア)の君候国が自立の動きを強めた。
- 1261年、小アジア(アナトリア)で生き延びていたビザンティン勢力がコンスタンティノープルを奪還し、ミカエル8世パライオロゴスがアヤ・ソフィア大聖堂においてビザンティン皇帝に即位した。
- 1277年、モンゴル支配下のルーム・セルジューク朝において、エミールたちが反乱を起こした。
エミールの要請を受けたマムルーク朝エジプトのスルタンであるバイバルスが小アジア(アナトリア)に侵入し、モンゴル軍を打ち破った。
しかし、やがてエジプト軍が撤退し、モンゴルに対するトルコ人の反乱は鎮圧された。
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