| 東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅冬景色のトルコ (1997年12月 - 1998年1月)
 
 略年表 - 07.オスマン・トルコによるコンスタンティノープルの征服
1362年、オスマン・トルコのムラト1世がエディルネ(アドリアノープル)を確保した。
 やがて、トラキアの大部分がオスマン・トルコの支配下に入った。
 
 
1363年、ハンガリー、ボスニア、セルビア、ワラキアの連合軍が、マリツァ河畔の戦においてオスマン・トルコ軍に敗れた。
 
1365年、オスマン・トルコのムラト1世が、首都をエディルネ(アドリアノープル)に移した。
 
1382年、オスマン・トルコがソフィア(現在のブルガリアの首都)を征服した。
 
1387年、ムラト1世の軍がコンヤ付近でカラマン候国軍を破った。
 しかし、同年、セルビアとブルガリアの連合軍が、オスマン・トルコ軍を破った。
 
 
1389年、セルビア南部のコソヴォにおいて、ムラト1世の軍がセルビア・ボスニア・アルバニア・ブルガリア・ヴェネツィア・ハンガリーの連合軍を打ち破った。
 この戦の最中にムラト1世が殺された。ムラト1世の後継者であるバヤズィット1世は、即位と同時に弟ヤクブを殺害した。以後、スルタンの即位に際しての兄弟の殺害が、オスマン・トルコの伝統となった。
 
 
1390年、独立を維持していたエルテナの後継者達の小王国(中央アナトリア)が崩壊し、オスマン・トルコに服属した。
 
1391年、オスマン・トルコのバヤズィット1世によるコンスタンティノープル攻囲。
 
1392年、バヤズィット1世がブルガリア王国を攻め滅ぼした。
 
1395年、オスマン・トルコのバヤズィット1世によるコンスタンティノープル攻囲。
 
1396年、ニコポリスの戦。ハンガリー王ジギスムントの呼びかけによる十字軍を、バヤズィット1世の軍がニコポリスで打ち破った。
 
1396-1397年、オスマン・トルコのバヤズィット1世によるコンスタンティノープル攻囲。
 バヤズィット1世は、ギリシャのアテネを占領し、更にペロポネス半島を征服した。
 
 
1399年、ビザンティン皇帝マヌエル2世パライオロゴスは、オスマン・トルコと戦うための援軍を求めるために、西欧へと旅立った。
 
1400-1402年、オスマン・トルコのバヤズィット1世によるコンスタンティノープル攻囲。
 その頃、援軍を求めて西欧を旅していたビザンティン皇帝マヌエル2世パライオロゴスは、パリではフランス王シャルル6世に会い、カンタベリーとロンドンではヘンリー4世と会っていた。
 
 西欧の王達はマヌエル2世を歓迎した。しかし、援軍が組織されることはなかった。
 
 
1402年、バヤズィット1世がアンカラの戦でティムールに破れた。
 
1403年、オスマン・トルコのバヤズィット1世が死去。彼の子供たちはスルタン位をめぐって争い、オスマン・トルコが分裂した。
 
1413年、メフメット1世によってオスマン・トルコが再統一された。
 
1416年、ヴェネツィアの艦隊がガリポリにおいてオスマン・トルコ艦隊に敗れた。
 
1421年、ビザンティン皇帝マヌエル2世パライオロゴスは、オスマン・トルコのスルタン位を僭称するムスタファを支持した。
 
1422年、ビザンティンが僭称者ムスタファを支持したことに対する報復として、オスマン・トルコのムラト2世がコンスタンティノープルを攻囲した。
 
1425年、西欧に援軍を依頼していたビザンティン皇帝マヌエル2世が死去。彼はパライオロゴス朝ルネサンスとも言える時代を代表する文人でもあった。
 
1428年、オスマン・トルコがハンガリーにおいて支配地を拡大した。
 
1440年、オスマン・トルコのムラト2世がベオグラードを攻めたが、征服には至らなかった。
 
1442-1443年、ハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュが、オスマン・トルコのムラト2世の軍を幾度か打ち破った。
 ムラト2世が退位し、息子のメフメット2世をスルタンに即位させた。
 
 
1444年、ハンガリーのフニャディ・ヤーノシュがトランシルヴァニアとブルガリアに侵入した。
 スルタン位に復帰したムラト2世がハンガリー軍を撃破。その後、ムラト2世は再び退位し、メフメット2世にスルタン位を譲った。
 
 
1445年、エディルネ(アドリアノープル)においてイェニチェリの反乱が起こった。
 ムラト2世はスルタンに復位し、イェニチェリの反乱を鎮圧した。
 
 
1447年、アルバニアにおいてオスマン・トルコに反旗を翻していたスカンデルベグ(ギェルギ・カストリオーティ、あるいはイスケンデル・ベイ)を攻撃。しかし、スカンデルベグを滅ぼすことはできなかった。
 
1448年、ハンガリーのフニャディ・ヤーノシュが、コソヴォにおいてオスマン・トルコ軍に敗れた。
 
1451年、メフメット2世がエディルネ(アドリアノープル)において、オスマン・トルコの第7代スルタンに即位。
 
1453年、21歳のメフメット2世の率いるオスマン・トルコ軍が、ビザンティン帝国の都コンスタンティノープルを攻略した。
 最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスは、ローマ皇帝としての地位を示す鷲の紋章を捨て、剣を手にトルコ兵の中に飛び込んで行った。ローマ帝国からの長い歴史を誇るビザンティン帝国が滅亡した。
 
 やがて、その街はイスタンブールと呼ばれるようになった。その語源は、ギリシャ語の「イス・ティン・ポリン(街へ)」だった。
   上の画像は、イスタンブール(トルコ)の郊外に残るテオドシウス(2世)帝の城壁。約千年にわたり、ビザンティン帝国の都コンスタンティノープルを守り続けてきた。
 
 
 
 
 
 |