東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
冬景色のトルコ
(1997年12月 - 1998年1月)
略年表 - 08.
オスマン・トルコとスレイマン大帝
- 1459年、オスマン・トルコがセルビア全土を占領した。
- 1462年、現在のルーマニアの一部を支配していたワラキア公ヴラッド・ツェペシュが、オスマン・トルコに対して攻撃をしかけた。このワラキア公ヴラッド・ツェペシュは、後にドラキュラのモデルとなった。
しかし、やがてオスマン・トルコとの和平を求めるワラキアの貴族層がヴラッド・ツェペシュを廃位し、その弟のラドウをワラキア公とした。
- 1465年、イスタンブールにてトプカプ宮殿の建設工事が始まった。完成は1478年。
- 1467年、アルバニアでオスマン・トルコに対する抵抗を続けていたスカンデルベグが死去。やがて、アルバニアはオスマン・トルコによって占領された。
- 1471年、オスマン・トルコのメフメット2世がカラマン君候国を征服した。
- 1475年、オスマン・トルコが黒海沿岸のクリミア汗国を服属させた。
- 1480年、メフメット2世の命により、オスマン・トルコ軍がロードス島を攻撃。しかし、聖ヨハネ騎士団の抵抗を受け、トルコ軍は撤退した。
- 1514年、セリム1世が小アジア(アナトリア)東南部にあるクルディスタンを征服した。
- 1517年、オスマン・トルコのセリム1世が、エジプトのマムルーク朝を征服した。
- 1520年、聖ヨハネ騎士団の本拠ロードス島を攻撃するための準備をしていたセリム1世が死去。
スレイマン1世(大帝)がオスマン・トルコの第10代スルタンに即位した。
- 1522年、スレイマン大帝が聖ヨハネ騎士団の領有するロードス島に侵攻。やがて、抵抗する力を失った聖ヨハネ騎士団は、オスマン・トルコに対してロードス島を放棄した。
余談ながら、ロードス島を失った聖ヨハネ騎士団はマルタ島に本拠を得て、西暦1565年にマルタ島に侵攻したオスマン・トルコ軍に一矢を報いることになる。
- 1526年、モハチの戦において、オスマン・トルコ軍がハンガリー軍を撃破し、ハンガリー王ラヨシュ2世が戦死。オスマン・トルコ軍はブダペストまで侵攻した。
- 1528年、プレヴェザの海戦。キリスト教徒連合艦隊を、バルバロス・ハイレッディン指揮下のオスマン・トルコ艦隊が撃破した。
- 1529年、スレイマン大帝に率いられたオスマン・トルコ軍がウィーンを包囲。しかし、冬の早い訪れにより、オスマン・トルコ軍は17日間で包囲を解いた。
- 1533年、アルジェリア海賊を率いる赤ヒゲ(バルバロス)ことハイレッディン(または、フズール・レイス)がオスマン・トルコに帰順し、カプダン・パシャ(大提督)に就任した。
オスマン・トルコに帰順したイスラムの海賊達は、アマルフィなどのイタリアの海辺の街を襲うこともあった。
- 1534-1536年、スレイマン大帝がサファヴィー朝に親征を行った。その結果、イラクとアゼルバイジャンがオスマン・トルコの版図に加えられた。
- 1536年、フランスのフランソワ1世が、ハプスブルク家に対抗するために、オスマン・トルコと同盟した。
ちなみにフランソワ1世は、ロワール川(フランス)流域にシャンボール城などを残し、またダ・ヴィンチをフランスに招聘した人物。
- 1541年、ハプスブルク家のカール5世によるアルジェ攻撃が失敗に終わった。
同じ年、オスマン・トルコのカプダン・パシャ(大提督)である赤ヒゲ(バルバロス)ハイレッディンが、同盟国フランスの支援の下に、ニースを占領した。
- 1544年、コーヒーがイスタンブールに到来した。
- 16世紀半ば、イスタンブールの人口が40万人に達した。そのうち57%がイスラム教徒、33%がキリスト教徒、10%がユダヤ教徒だった。
同じ頃、パリの人口は20万人、ローマは10万人、ロンドンは9万人に過ぎなかった。
- 1553年、オスマン・トルコの支配者スレイマン大帝の息子ムスタファが処刑された。
- 1558年、スレイマン大帝の息子セリムとバヤズィットが対立し、戦闘の挙句にセリムが勝ち、バヤズィットは亡命先のイランで処刑された。
- 1565年、オスマン・トルコが、聖ヨハネ騎士団の支配するマルタ島を攻囲したが、騎士団の抵抗を打ち破ることができずに撤退した。
- 1566年9月6日、ハンガリーを攻撃中のスレイマン大帝が死去。
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