東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
冬景色のトルコ
(1997年12月 - 1998年1月)
略年表 - 09.
オスマン・トルコの衰退
- 1571年、オスマン・トルコがヴェネツィアから地中海東部の要衝キプロス島を奪った。
しかし、同年秋、レパントの海戦において、オスマン・トルコ艦隊はキリスト教徒連合艦隊(ローマ教皇庁、フィレンツェを中心とするトスカナ公国、マルタ島に拠点を置く聖ヨハネ騎士団、スペイン、ヴェネツィア)に敗れた。
- 1572年、レパントの海戦の英雄ハプスブルク家のドン・ファンがチュニスを征服。
- 1574年、オスマン・トルコがチュニスを奪還した。
- 1576年、サファヴィー朝イランとの戦が始まった。15年間に及ぶ戦の主な戦場は、現在のアゼルバイジャンとグルジアだった。
- 1590年、サファヴィー朝イランとの講和が成立。オスマン・トルコは、アゼルバイジャンの一部とグルジアを確保した。
- 16世紀末-17世紀初、流民化した人々によるジェラーリーの乱が起こった。
- 1609年、イスタンブール市内でブルー・モスクの建設工事が始まった。完成は1616年。
- 1622年、イェニチェリ軍団によるオスマン2世殺害。
- 1648年、トルコ伝統の騎兵軍団と新しい軍の中核となったイェニチェリとが、イスタンブール市内のブルー・モスク周辺で戦火を交えた。
- 1656年、イタリアの海洋都市国家ヴェネツィアがダーダネルス海峡を封鎖。
同じ年、メフメット・キョプリュリュが大宰相に起用された。彼は乱れていたオスマン・トルコの秩序を回復し、危機を回避することに成功した。
- 1669年、オスマン・トルコがヴェネツィアからクレタ島を奪い取った。
- 1677-1681年、オスマン・トルコとロシアとの戦。その講和条約において、ロシアによるウクライナ併合を認めざるを得なかった。
- 1683年、オスマン・トルコ軍による第2次ウィーン包囲が失敗に終わった。
オスマン・トルコ軍の撤退後、コーヒーがヨーロッパに普及した。
- 1696年、ロシアのピョートル大帝がアゾフを征服。
- 1699年、ハプスブルク帝国との間で結ばれたカルロヴィッツの和約により、オスマン・トルコはハンガリーを失った。
- 1718年、パサロヴィッツの和約により、オスマン・トルコは一時ベオグラードを失った。
- 18世紀初頭、アフメット3世によって重用された大宰相ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャ(小アジアのカッパドキア出身)の統治下、対欧宥和政策・文化振興政策が採られ、チューリップ時代が花開いた。
- 1730年、パトロナ・ハリルの乱。ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャが殺され、アフメット3世が廃位され、チューリップ時代が幕を閉じた。
- 1774年、オスマン・トルコはクリミア汗国に対する宗主権を失った。
- 1783年、ロシアのエカテリーナ大帝(2世)がオスマン・トルコ支配下のグルジアに干渉した。
- 1784年、ロシアのエカテリーナ大帝(2世)がクリミアを征服した。
- 1798年、ナポレオンがオスマン・トルコ支配下のエジプトに侵入した。(エジプト遠征からフランスに帰国したナポレオンは統領政府を樹立している。)
- 1803-1804年、反乱を起こしたワッハーブ派が、聖地メッカとメディナを占領した。
- 1805年、アルバニア人のムハンマド・アリーがエジプトの太守となった。
- 1807年、反乱を起こしたイェニチェリ軍団がイスタンブールのトプカプ宮殿に侵入し、捕らえられたセリム3世が廃位され、やがて殺された。
- 1808年、マフムート2世が第30代スルタンに即位。
彼は地方有力者の力を抑え、砲兵を中心とする洋式軍隊を育成した。
- 1812年、ブカレスト条約成立。反乱を続けていたセルビアが自治権を獲得した。
同じ年、エジプト太守ムハンマド・アリーの息子イブラーヒームが、ワッハーブ派によって占拠されていた聖地メッカとメディナを奪還した。
- 1821年、ギリシャのパトラス大主教ゲルマノスが、オスマン・トルコからの解放戦争を宣言し、ギリシャ独立戦争が始まった。
- 1822年、ギリシャの国民議会がオスマン・トルコからのギリシャの独立を宣言した。
同じ年、オスマン・トルコのスルタンの命により、エジプト太守ムハンマド・アリーがクレタ島を占領した。
- 1826年、イェニチェリの蜂起。マフムート2世は、自分が育成した洋式軍隊を以ってイェニチェリを鎮圧し、イェニチェリ軍団を廃止した。
- 1827年、イギリス・フランス・ロシア連合艦隊が、エジプト・トルコ艦隊を撃破。
- 1830年、ロンドン会議において、ギリシャの独立が宣言された。
但し、クレタ島は独立したギリシャからは除外されていた。
- 1832年、オスマン・トルコのスルタンマフムート2世と対立したエジプト太守ムハンマド・アリーは、軍を率いて小アジア(アナトリア)に侵攻し、古都コンヤまで進出した。
- 1833年、列強により説得されたマフムート2世は、エジプト太守ムハンマド・アリーとキュタヒヤ条約を結び、シリアとキリキアをエジプトに譲った。
- 1839年、オスマン・トルコ軍がエジプト支配化のシリアに侵入。しかし、ムハンマド・アリー軍によって撃破された。
同じ年、マフムート2世死去。後継者アブドゥルメジドは、「タンズィマート改革」を推進した。
- 1840年、エジプト太守ムハンマド・アリーが、エジプトの世襲の支配者であることが確認された。
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