サン・レミ・ド・プロヴァンスに残るグラヌムの遺跡続いてやってきたのはサン・レミ・ド・プロヴァンスの街のはずれにあるレ・ザンティックと呼ばれる場所だった。ここには古代ローマ帝国時代のグラヌムの遺跡が残っている。
上の画像がサン・レミ・ド・プロヴァンスのグラヌムの遺跡にある凱旋門(右側)と死者記念塔(左側)なんだ。
話は横道に逸れるんだけど、このサン・レミ・ド・プロヴァンスで生まれた著名な人物の一人が、西暦1555年に「ノストラダムスの大予言」を出版したノストラダムスだった。彼の父はアヴィニョンからここに移り住み、やがて彼が生まれたというわけだ。彼はやがてフランス王シャルル9世によって顧問とされたらしい。ついでながら、上の画像にある死者記念塔はノストラダムスの予言詩に頻繁に登場するんだそうな。
ケルト人の街グラヌムと古代ローマ帝国そもそもは紀元前4世紀頃にケルト系の人々が築いた街がグラヌムだったらしい。その街には癒しの泉があり、その泉のほとりにはケルトの神グラニスの神殿が築かれた。故に街はグラヌムと呼ばれたんだそうな。グラヌムからさほど遠くない地中海のほとりには港町マルセイユがあった。紀元前600年頃にマルセイユに古代ギリシャ人が定住し発展していた。グラヌムのケルト人とマルセイユのギリシャ人は当初は良好な関係にあり、グラヌムにはギリシャ風の建物も建てられたんだそうな。 ところが紀元前2世紀にはグラヌムとマルセイユは対立に陥った。マルセイユのギリシャ人は、古代ローマ帝国に支援を求めた。結局、グラヌムのケルト人は古代ローマ帝国軍に敗れた。でも、ケルト人はグラヌムに住み続けることを許されている。しかし、紀元前90年にグラヌムのケルト人は古代ローマ帝国に挑み、敗れて街は破壊されてしまった。 やがてポンペイウスとカエサル(シーザー)が戦った際、カエサル(シーザー)に敵対したマルセイユは古代ローマ帝国の支配下に落ち、グラヌムを含むこのあたりの土地のローマ化が進んだ。下の画像にある死者記念塔はこの頃に建てられたと今は考えられているらしい。
その後、古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、属州ガリア・ナルボネンシスを創設し、グラヌムの人々にはローマ市民権を与えている。グラヌムの街に築かれた凱旋門は、その頃のものなんだそうな。
古代グラヌムの破壊と発掘そして西暦260年、グラヌムの街を襲ったのは、今のドイツ中南部に住んでいたゲルマン系アレマン人だった。アレマン人によって蹂躙されたグラヌムの街は、復興させることができないほどに破壊されたらしい。(このアレマン人は、イタリアにも侵入し、古代ローマ帝国の皇帝アウレリアヌスとも戦い、アルザス地方の街ストラスブールをも襲っている。)グラヌムの街を見捨てた人々は、すぐ近くにある今のサン・レミ・ド・プロヴァンスのあたりに移っていった。そこに新しい家々を建てるために、人々はグラヌムの街の建物から石材を運んだらしい。その結果、グラヌムの街の破壊は更に進んだんだそうな。そしてかつてグラヌムのあった街のあたりは土に埋もれていったんだそうな。
でも、グラヌムの街のはずれにあった凱旋門と死者記念塔だけは破壊されることもなかったし、埋もれることもなかった。(上の画像の死者記念塔の台座の彫刻。)
画家ゴッホが入院していたサン・レミの精神病院そんなグラヌムの遺跡のすぐ近くに、サン・ポール・ド・モゾル精神病院がある。その庭が下の画像なんだ。
フランスの首都パリからプロヴァンス地方の街アルルに移った画家フィンセント・ファン・ゴッホ。明るいアルルでゴッホは多くの作品を残している。そして画家ゴーギャンと共同生活を始めたんだ。
All rights reserved このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 このサイトの運営は、あちこち三昧株式会社が行います。
|