東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のプロヴァンス (フランス)」

12. サン・レミ・ド・プロヴァンスの遺跡とゴッホの病院

サン・レミ・ド・プロヴァンスに残るグラヌムの遺跡

続いてやってきたのはサン・レミ・ド・プロヴァンスの街のはずれにあるレ・ザンティックと呼ばれる場所だった。ここには古代ローマ帝国時代のグラヌムの遺跡が残っている。

フランス南部プロヴァンス地方のサン・レミのグラヌム遺跡の凱旋門と死者記念塔

上の画像がサン・レミ・ド・プロヴァンスのグラヌムの遺跡にある凱旋門(右側)と死者記念塔(左側)なんだ。

この死者記念塔なんだけど、かつては古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの二人の孫(その二人が若くして亡くなった結果、ティベリウスが第2代皇帝となった)の為に建てられたとされていた。でも、最新の資料によれば、ちょいと違ってきているみたい。

話は横道に逸れるんだけど、このサン・レミ・ド・プロヴァンスで生まれた著名な人物の一人が、西暦1555年に「ノストラダムスの大予言」を出版したノストラダムスだった。彼の父はアヴィニョンからここに移り住み、やがて彼が生まれたというわけだ。彼はやがてフランス王シャルル9世によって顧問とされたらしい。ついでながら、上の画像にある死者記念塔はノストラダムスの予言詩に頻繁に登場するんだそうな。

ケルト人の街グラヌムと古代ローマ帝国

そもそもは紀元前4世紀頃にケルト系の人々が築いた街がグラヌムだったらしい。その街には癒しの泉があり、その泉のほとりにはケルトの神グラニスの神殿が築かれた。故に街はグラヌムと呼ばれたんだそうな。

グラヌムからさほど遠くない地中海のほとりには港町マルセイユがあった。紀元前600年頃にマルセイユに古代ギリシャ人が定住し発展していた。グラヌムのケルト人とマルセイユのギリシャ人は当初は良好な関係にあり、グラヌムにはギリシャ風の建物も建てられたんだそうな。

ところが紀元前2世紀にはグラヌムとマルセイユは対立に陥った。マルセイユのギリシャ人は、古代ローマ帝国に支援を求めた。結局、グラヌムのケルト人は古代ローマ帝国軍に敗れた。でも、ケルト人はグラヌムに住み続けることを許されている。しかし、紀元前90年にグラヌムのケルト人は古代ローマ帝国に挑み、敗れて街は破壊されてしまった。

やがてポンペイウスとカエサル(シーザー)が戦った際、カエサル(シーザー)に敵対したマルセイユは古代ローマ帝国の支配下に落ち、グラヌムを含むこのあたりの土地のローマ化が進んだ。下の画像にある死者記念塔はこの頃に建てられたと今は考えられているらしい。

フランス南部プロヴァンス地方のサン・レミのグラヌム遺跡の凱旋門と死者記念塔

その後、古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、属州ガリア・ナルボネンシスを創設し、グラヌムの人々にはローマ市民権を与えている。グラヌムの街に築かれた凱旋門は、その頃のものなんだそうな。

その後のグラヌムの街は、アルルやアヴィニョンほどではなかったけれども、次第に発展していった。街には広場や神殿、水道橋、ローマ風呂なども築かれたらしい。

古代グラヌムの破壊と発掘

そして西暦260年、グラヌムの街を襲ったのは、今のドイツ中南部に住んでいたゲルマン系アレマン人だった。アレマン人によって蹂躙されたグラヌムの街は、復興させることができないほどに破壊されたらしい。(このアレマン人は、イタリアにも侵入し、古代ローマ帝国の皇帝アウレリアヌスとも戦い、アルザス地方の街ストラスブールをも襲っている。)

グラヌムの街を見捨てた人々は、すぐ近くにある今のサン・レミ・ド・プロヴァンスのあたりに移っていった。そこに新しい家々を建てるために、人々はグラヌムの街の建物から石材を運んだらしい。その結果、グラヌムの街の破壊は更に進んだんだそうな。そしてかつてグラヌムのあった街のあたりは土に埋もれていったんだそうな。

フランス南部プロヴァンス地方のサン・レミのグラヌム遺跡の死者記念塔の台座の彫刻

でも、グラヌムの街のはずれにあった凱旋門と死者記念塔だけは破壊されることもなかったし、埋もれることもなかった。(上の画像の死者記念塔の台座の彫刻。)

そして西暦1921年、古代の街グラヌムの発掘が始まった。浴場、寺院、住居などの多くの建物が発掘された。そんなグラヌムの遺跡の発掘は今も続いているんだ。

画家ゴッホが入院していたサン・レミの精神病院

そんなグラヌムの遺跡のすぐ近くに、サン・ポール・ド・モゾル精神病院がある。その庭が下の画像なんだ。

フランス南部プロヴァンス地方のサン・レミで画家ゴッホが入院していたサン・ポ−ル・ド・モゾル精神病院

フランスの首都パリからプロヴァンス地方の街アルルに移った画家フィンセント・ファン・ゴッホ。明るいアルルでゴッホは多くの作品を残している。そして画家ゴーギャンと共同生活を始めたんだ。

ところがゴーギャンとの関係は悪化し、ゴッホは自分の耳を切り落とす事件を起こしてしまった。しばしはアルルの病院に入っていたゴッホ。でも、結局はアルルに居続けることもできなくなり、移ってきたのがこのサン・レミ・ド・プロヴァンスにある精神病院だった。

しかし、このサン・レミ・ド・プロヴァンスでも画家ゴッホは落ち着くことが出来なかった。やがて彼はここを出て、列車でパリに向かった。その後、オーヴェール・シュール・オワーズに移り、そこで彼は自殺したわけだ。


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