東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

パリに住んだ ・・・ つもりの 9日間 (フランス)

パリからロワール、ノルマンディー、シャルトルまで

38. モンマルトルの丘のフニクレール (パリ)

モンマルトルの丘を登るフニクレール (ケーブルカー)

パリのモンマルトルの丘の上の白亜のサクレ・クール寺院を見上げながら、公園近くのカフェでコーヒーを飲んで休憩。さて、では意を決してモンマルトルの丘に登るか。

といっても、坂道や階段を自分の足で登っていくほどの意は決してないから。モンマルトルの丘の南側から登っていくフニクレール(つまりケーブルカー)に乗って登ろうというわけだ。それが下の画像。

フランスの首都パリのモンマルトルの丘を登るフニクレール(ケーブルカー)

そのフニクレールのチケットを買う為に窓口に並ぼうとして気づいた。カルネ(パリの地下鉄の回数券)が使えるんだ。これは便利だよね。窓口の行列に並ぶ必要も無いし。パリを観光して廻るならば、地下鉄のカルネは必須だね。

モンマルトルの丘の中腹の駅までフニクレールは5分ほどで登った。ここで終点だ。初めて登ったパリのモンマルトルの丘。あのサン・ドニ(聖ドニ)の殉教の場所。そして、ロートレック、ゴッホ、ユトリロ、アポリネール、ピカソなど多くの芸術家が住んだパリのモンマルトルの丘だ。

モンマルトルの丘のサクレ・クール寺院の階段

フニクレールを降りた観光客の多くが向かうのがサクレ・クール寺院だね。パリのモンマルトルのランド・マークとも言える建物だよね。

フランスの首都パリのモンマルトルの丘にあるサクレ・クール寺院の階段に集まる人々

そして、上の画像はサクレ・クール寺院の階段の様子。でも、人々はサクレ・クール寺院を見るわけじゃなくて、逆に背を向けているけど ・・・ 。

モンマルトルの丘の上から眺めたパリ

そんなサクレ・クール寺院の階段に立つ人々が眺めている風景が下の画像だ。皆さん、フランスの首都パリを見渡しているわけだね。

フランスの首都パリのモンマルトルの丘にあるサクレ・クール寺院の階段から眺めたパリ

エッフェル塔の上からもパリを見渡すことが出来るけど、このモンマルトルの丘のサクレ・クール寺院の階段からの眺めも捨て難いね。

モンマルトルの丘に並んだ大砲がパリに向けられた

パリを眺めるのに最適な場所がモンマルトルの丘なんだけど、つまりはパリを攻めようとする場合には大砲を並べるにも良い場所だった。というわけで、歴史の中ではモンマルトルの丘の上に大砲が並べられてパリを怖れさせたことがある。

例えば、西暦1589年にフランス王となったブルボン家のアンリ4世。彼は元々はプロテスタントだったということもあって、ローマ教皇に従うカトリックの根強いフランスの首都パリに入ることが出来なかった。元々はパリはカトリックのギーズ公(アンリ3世に暗殺された)を支持していたからね。

そんなわけで西暦1590年にアンリ4世はモンマルトルに大砲を並べてパリを攻略しようとしたんだ。結局、その時にはパリを落とすことが出来なかったんだけどね。

時が流れて西暦1789年にはフランス革命が始まる。上に書いたブルボン家のアンリ4世の子孫であるフランス王ルイ16世やマリー・アントワネットが処刑され、やがてフランス皇帝ナポレオンが即位。でも、やがてはナポレオンも勢いを失う。

そんなナポレオンを攻めたロシア軍は、西暦1814年にパリの北のモンマルトルの丘に砲兵隊の陣を置いたんだそうな。そしてフランス皇帝ナポレオンが退位してブルボン家の王政が復活したわけだ。(翌年にはナポレオンの百日天下があったけど。)

ところで話は変わるけど、このモンマルトルの丘で歴史に残ることが他にもある。西暦1534年には、イグナチオ・デ・ロヨラたちがイエズス会の設立の誓いをここで立てたんだそうな。その結果、日本にもフランシスコ・ザビエルたちが布教に来たというわけだ。やがて日本から天正遣欧少年使節がヨーロッパに来て、ローマのサン・ピエトロ大聖堂教皇シクストゥス5世の即位の式典に参加するなんてことにもなったんだ。


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