ルーブル美術館はかつて城砦だったこの旅行記「パリに住んだ ・・・ つもりの9日間(フランス)」に書いた旅の中では行かなかったルーブル美術館。でも、もちろん別の機会にパリを歩いた時にはルーブル美術館に入っているんだ。パリではルーブル美術館ははずせないよね。(下の画像は、オルセー美術館のテラスから眺めたセーヌ川の北岸のルーブル美術館。)
このルーブル美術館、かつてはフランス王の宮殿だった。いや、そもそもは城砦だった。西暦1190年にここに城砦を築くことを命じたのは、フランス王フィリップ2世尊厳王(オーギュスト)(イングランド王リチャード獅子心王が築いたガイヤール城を攻略し、イングランドからノルマンディー地方を奪い返したフランス王)だった。
フランス王の宮殿となったルーブル時は流れて14世紀後半には、フランス王シャルル5世が城砦として築かれたルーブルを宮殿(下の画像は今のルーブル美術館)として改築させている。(その頃はフランスとイングランドが戦った百年戦争の時代なんだけど、そんな悠長なことで良かったのかね。ちなみに、シャルル5世の父のフランス王ジャン2世は捕われてロンドンで亡くなっている。)
そして16世紀にルーブル宮殿を新たな宮殿として建て直させたのが、フランス王フランソワ1世(ハプスブルク家の皇帝カール5世の宿敵)だった。ちなみに、このフランソワ1世は戦いに敗れて捕虜となったりもしたフランス王だった。でも、ルーブル美術館に偉大な貢献をした人物でもある。
美術館となったルーブル宮殿とフランス革命そして西暦1789年、そのルイ14世が創設したアンヴァリッド 廃兵院をパリの人々が襲い、武器弾薬を奪ってフランス革命が始まった。そしてフランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑された西暦1793年、ルーブル宮殿は美術館とされたんだそうな。
そんなフランス革命から生まれたのがフランス皇帝ナポレオンだった。ダヴィドが描いた「皇帝ナポレオンの戴冠式」が上の画像なんだけど、この作品もルーブル美術館で見ることができるんだ。
パリの革命とルーブル美術館フランス皇帝ナポレオンが退位してブルボン家の王政が復活し、フランス王となったルイ18世はルーブル美術館の隣のテュイルリー宮殿を王宮とした。ところが、西暦1830年にパリで再び革命(フランス七月革命)が起き、ブルボン家のフランス王シャルル10世が亡命したんだ。その際には、王宮となっていたテュイルリー宮殿は、武器を持った人々に占拠されている。その隣にあったルーブル美術館周辺でも戦闘があったらしい。幸いにルーブル美術館は無事だったけど。
その西暦1830年のフランス七月革命をテーマにドラクロワが描いたのが、上の画像にある「民衆を率いる自由の女神」だった。この作品もルーブル美術館で見ることができるんだ。
その後、西暦1848年にはフランス二月革命が起き、またもやテュイルリー宮殿は襲われている。ルーブル美術館は無事だったけど。
ルーブル美術館の強運の女神は ・・・隣にあったテュイルリー美術館が燃え落ちてしまったのに比べて、ルーブル美術館(あるいは宮殿)は強運だよね。きっと女神がついているに違いない。
その強運の女神が、ミロのヴィーナス(上の画像)なのか、サモトラケのニケなのか、あるいはダ・ヴィンチのモナリザなのかはわからないけどね。
再びルーブル美術館を訪れたならば ・・・広大で数え切れないほどの数の展示品のあるルーブル美術館(ロンドンの大英博物館やローマのヴァティカン美術館・博物館もそうだけど)を歩いても、必ず見落としはあるよね。後から資料などを見て、「 ・・・ を見てこなかった」と後悔させられるわけだ。私にとっては、それがリュシッポスによるアレクサンダー大王像なんだ。イタリアのナポリの国立考古学博物館にはアレクサンダー大王のモザイク画がある。でも、それはアレクサンダー大王の死後300年あるいは400年ほど経ってから制作されたもの。 他方、古代ギリシャ時代の彫刻家リュシッポスは大王のお抱えの彫刻家だった。つまり、大王本人と直接の面識があったわけだ。そんなリュシッポスが制作したアレクサンダー大王像は、本人の面影を映していそうだよね。それがこのルーブル美術館にあるらしい。もし再びルーブル美術館を訪れる機会があれば、是非ともリュシッポスのアレクサンダー大王像を見てみたいな。
ルーブル美術館ではスリに注意全くの余談を一つ。西暦2013年4月18日に外務省の海外安全ホームページに掲載された注意喚起によれば、パリのルーブル美術館でスリが多発しているらしい。その要点を書いておくね。
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