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マクドナルド一族 Clan MacDonald の歴史
「島々の王」の歴史
かつて、スコットランド西部の島々を支配した勢力があった。その支配者はマクドナルド家。その族長は「島々の王」とも呼ばれていた。
決して独立を諦めようとせず、戦いを続けた一族の歴史である。
アイルランドから
アイルランドのコン王 ( ? - AD 157 ) の子孫に、スコット人の王女と結婚した人物がいた。彼は 3 人の息子を得た。息子達は、母の実家のスコット人の支援を得て、アイルランドの王位を得ようとした。しかし、争いに敗れた彼らは、スコットランドの地に移り住んだ。 5 世紀末から 6 世紀初頭のことだと言われる。
彼らの息子達の中に、ファーガスという人物がいた。彼はダルリアダという小王国を築いた。ファーガスの二人の息子達のうち、兄のほうの子孫がダルリアダの王位を継承した。弟ゴドフリーの子孫は、島々の支配者となり、マクドナルド一族の先祖となった。
ちなみに、兄脈のダルリアダ王国からは、後に初代スコットランド王となるケネス・マッカルピンが出ている。つまり、マクドナルド一族とスコットランド王家とは同じ先祖を持っていることになる。
島々の統一と危機
弟脈ゴドフリーの子孫は、次第に勢力を拡大し、やがて島々を統一した。その子孫である島々の王マーカスは、スコットランド王・カンブリア王と同盟を結んでいる。
しかし、次の当主であるギレドマンは、ノルマンに追われてアイルランドに逃れた。その息子、ギレブリデはアイルランドにおける同族のコラ家の支援を得て、ノルマンに戦いを挑んだ。しかし、敗れて逃れ、島々の王の一族の勢力は急速に衰えた。
サマーレド - 英雄 -
その息子のサマーレドは、やがてスコットランドにおけるケルト族の英雄となる。戦いに敗れた父と共に、サマーレドは洞窟に住んでいた。彼は狩と漁をして暮らしていた。
スカイ島の伝説。島の人々は、かつての支配者の後裔であるサマーレドを指導者として迎えることを決めた。その誘いに応じて、サマーレドはスカイ島に渡り、人々の指導者となった。サマーレドは、人々を率いて、ノルマンの侵略者と戦った。サマーレドは、異教徒であるノルマンの支配から、島々を解放した。彼は自分の王国を築き上げた。
島々の王サマーレドの勢力を警戒したスコットランド王マルコム 4 世は、軍を送り込んだ。サマーレドも兵を集めて迎え撃った。しかし、形勢不利を悟ったマルコム 4 世は策略を用いた。サマーレドの甥モーリス・マクニールを使って、サマーレドを暗殺させたのだ。サマーレドの死を知った兵たちは、島々に退却した。1164 年のことである。
ドナルド
サマーレドの子孫の中に、ドナルドという人物がいた。13 世紀の半ばのことである。その名から、子孫達はマクドナルド一族と呼ばれるようになった。
その息子がアンガス・モー。彼は二人の息子を残した。兄のアレクサンダーは、更に領土を拡大する。しかし、彼はスコットランド独立の英雄ロバート・ザ・ブルースに敵対し、捕えられて牢獄で命を落とした。
アンガス・オグ
アレクサンダーの領地は弟のアンガス・オグに与えられた。ロバート・ザ・ブルースと共にバノックバーンの戦い ( 1314 年) にも参加したアンガス・オグに対して、スコットランド王ロバート 1 世(ロバート・ザ・ブルース)は更に領地を与えた。その中には後に虐殺事件の舞台となったグレンコーも含まれていた。
アンガス・オグは二人の息子を残した。兄がジョン。弟はジョン・オグ。そのジョン・オグが、グレンコーのマクドナルド家の祖先である。
ジョン - スコットランド王家との対立 -
父のアンガス・オグとは異なり、ジョンは必ずしもスコットランド王家との関係を重視しなかった。 1335 年にはイングランド王と同盟を結んでいる。しかし、1341 年にスコットランド王となったデビド 2 世は、島々の王との関係改善に努め、ジョンとの和解を果たした。
やがて、ロス伯爵領の継承問題に関して、スコットランド王はジョンに反対の立場を取った。島々の王の勢力が更に拡大することを惧れたのだ。その結果、ジョンは再びスコットランド王と対立するに至る。ジョンはイングランドに接近していった。
1366 年、スコットランドにおいて大規模な反乱がおこった。王デビド 2 世は反乱を鎮圧することが出来ず、スチュワート家に力を借りざるを得なくなった。
島々の王ジョンはスコットランド王に屈することを拒んだ。他方、フランスとの戦いに注力せざるを得ないイングランドには、スコットランドに介入する余裕がない。イングランドとの講和を得たスコットランド王デビド 2 世は、島々の王に注意を集中することが可能となった。そこで、スチュワート家が介入し、ジョンは王に対して一定の譲歩を余儀なくされた。
1371 年、スチュワート家のロバートが王位につき、スコットランド王ロバート 2 世となった。スチュワート王朝の始まりである。
ロバート 2 世は娘婿であるジョン 及び マクドナルド一族の勢力に関して、警戒を怠ってはいなかった。一族はあまりにも強大な力を得つつあった。しかし、即位直後のロバート 2 世には、武力を以って島々の王を抑えることは出来ない。そこで、ロバート 2 世は将来のために策略の種をまいた。
ロバート 2 世は、マクドナルド家の勢力を二分することを考えていた。つまり、ジョンの先妻の息子と後妻の息子、各々に島々の王の領土を分割相続させたのである。島々の王ジョンは、ロバート 2 世の言葉に従って領地を分割した後、1380 年頃に亡くなった。
ドナルド - 臣従 -
本土にある領地を継承したのは先妻の息子ゴドフリーだった。他方、後妻の息子ドナルドは島々を領有した。
再びイングランド軍がスコットランドに侵入してきた。スコットランド王家(当時ロバート 3 世が王位についていた)との関係を軽視しイングランドと協力した島々の支配者ドナルドは、ロス伯爵領の継承問題を契機に、スコットランド本土に侵攻した。
当初は勝ち進んでいたドナルドだが、1411 年には撤退を余儀なくされる。翌年にも戦いが続けられたが、結局はドナルドは譲歩を余儀なくされた。彼はロス伯爵領に対する権利を放棄し、スコットランド王家に臣従せざるを得なくなった。
アレクサンダー - 屈伏 -
ドナルドの息子アレクサンダーは、父の意志を継ぎ、ロス伯爵領を獲得した。しかし、スコットランド王ジェームズ 1 世は、それを見過ごすことが出来ない。インヴァネスで開催された議会に出席するために姿を見せたアレクサンダーは、王によって逮捕され、王に臣従することを約した上で釈放された。
自由を回復したアレクサンダーは、武力に訴えた。しかし、彼は再び捕えられ、エディンバラに連行された。 1429 年のことである。彼はタンタロン城に監禁された。
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