東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

スコットランド周遊

1994 年 8 月

マクドナルド一族 Clan MacDonald の歴史

「島々の王」の歴史

かつて、スコットランド西部の島々を支配した勢力があった。その支配者はマクドナルド家。その族長は「島々の王」とも呼ばれていた。

決して独立を諦めようとせず、戦いを続けた一族の歴史である。

アイルランドから

アイルランドのコン王 ( ? - AD 157 ) の子孫に、スコット人の王女と結婚した人物がいた。彼は 3 人の息子を得た。息子達は、母の実家のスコット人の支援を得て、アイルランドの王位を得ようとした。しかし、争いに敗れた彼らは、スコットランドの地に移り住んだ。 5 世紀末から 6 世紀初頭のことだと言われる。

彼らの息子達の中に、ファーガスという人物がいた。彼はダルリアダという小王国を築いた。ファーガスの二人の息子達のうち、兄のほうの子孫がダルリアダの王位を継承した。弟ゴドフリーの子孫は、島々の支配者となり、マクドナルド一族の先祖となった。

ちなみに、兄脈のダルリアダ王国からは、後に初代スコットランド王となるケネス・マッカルピンが出ている。つまり、マクドナルド一族とスコットランド王家とは同じ先祖を持っていることになる。

島々の統一と危機

弟脈ゴドフリーの子孫は、次第に勢力を拡大し、やがて島々を統一した。その子孫である島々の王マーカスは、スコットランド王・カンブリア王と同盟を結んでいる。

しかし、次の当主であるギレドマンは、ノルマンに追われてアイルランドに逃れた。その息子、ギレブリデはアイルランドにおける同族のコラ家の支援を得て、ノルマンに戦いを挑んだ。しかし、敗れて逃れ、島々の王の一族の勢力は急速に衰えた。

サマーレド - 英雄 -

その息子のサマーレドは、やがてスコットランドにおけるケルト族の英雄となる。戦いに敗れた父と共に、サマーレドは洞窟に住んでいた。彼は狩と漁をして暮らしていた。

スカイ島の伝説。島の人々は、かつての支配者の後裔であるサマーレドを指導者として迎えることを決めた。その誘いに応じて、サマーレドはスカイ島に渡り、人々の指導者となった。サマーレドは、人々を率いて、ノルマンの侵略者と戦った。サマーレドは、異教徒であるノルマンの支配から、島々を解放した。彼は自分の王国を築き上げた。

島々の王サマーレドの勢力を警戒したスコットランド王マルコム 4 世は、軍を送り込んだ。サマーレドも兵を集めて迎え撃った。しかし、形勢不利を悟ったマルコム 4 世は策略を用いた。サマーレドの甥モーリス・マクニールを使って、サマーレドを暗殺させたのだ。サマーレドの死を知った兵たちは、島々に退却した。1164 年のことである。

ドナルド

サマーレドの子孫の中に、ドナルドという人物がいた。13 世紀の半ばのことである。その名から、子孫達はマクドナルド一族と呼ばれるようになった。

その息子がアンガス・モー。彼は二人の息子を残した。兄のアレクサンダーは、更に領土を拡大する。しかし、彼はスコットランド独立の英雄ロバート・ザ・ブルースに敵対し、捕えられて牢獄で命を落とした。

アンガス・オグ

アレクサンダーの領地は弟のアンガス・オグに与えられた。ロバート・ザ・ブルースと共にバノックバーンの戦い ( 1314 年) にも参加したアンガス・オグに対して、スコットランド王ロバート 1 世(ロバート・ザ・ブルース)は更に領地を与えた。その中には後に虐殺事件の舞台となったグレンコーも含まれていた。

アンガス・オグは二人の息子を残した。兄がジョン。弟はジョン・オグ。そのジョン・オグが、グレンコーのマクドナルド家の祖先である。

ジョン - スコットランド王家との対立 -

父のアンガス・オグとは異なり、ジョンは必ずしもスコットランド王家との関係を重視しなかった。 1335 年にはイングランド王と同盟を結んでいる。しかし、1341 年にスコットランド王となったデビド 2 世は、島々の王との関係改善に努め、ジョンとの和解を果たした。

やがて、ロス伯爵領の継承問題に関して、スコットランド王はジョンに反対の立場を取った。島々の王の勢力が更に拡大することを惧れたのだ。その結果、ジョンは再びスコットランド王と対立するに至る。ジョンはイングランドに接近していった。

1366 年、スコットランドにおいて大規模な反乱がおこった。王デビド 2 世は反乱を鎮圧することが出来ず、スチュワート家に力を借りざるを得なくなった。

島々の王ジョンはスコットランド王に屈することを拒んだ。他方、フランスとの戦いに注力せざるを得ないイングランドには、スコットランドに介入する余裕がない。イングランドとの講和を得たスコットランド王デビド 2 世は、島々の王に注意を集中することが可能となった。そこで、スチュワート家が介入し、ジョンは王に対して一定の譲歩を余儀なくされた。

1371 年、スチュワート家のロバートが王位につき、スコットランド王ロバート 2 世となった。スチュワート王朝の始まりである。

ロバート 2 世は娘婿であるジョン 及び マクドナルド一族の勢力に関して、警戒を怠ってはいなかった。一族はあまりにも強大な力を得つつあった。しかし、即位直後のロバート 2 世には、武力を以って島々の王を抑えることは出来ない。そこで、ロバート 2 世は将来のために策略の種をまいた。

ロバート 2 世は、マクドナルド家の勢力を二分することを考えていた。つまり、ジョンの先妻の息子と後妻の息子、各々に島々の王の領土を分割相続させたのである。島々の王ジョンは、ロバート 2 世の言葉に従って領地を分割した後、1380 年頃に亡くなった。

ドナルド - 臣従 -

本土にある領地を継承したのは先妻の息子ゴドフリーだった。他方、後妻の息子ドナルドは島々を領有した。

再びイングランド軍がスコットランドに侵入してきた。スコットランド王家(当時ロバート 3 世が王位についていた)との関係を軽視しイングランドと協力した島々の支配者ドナルドは、ロス伯爵領の継承問題を契機に、スコットランド本土に侵攻した。

当初は勝ち進んでいたドナルドだが、1411 年には撤退を余儀なくされる。翌年にも戦いが続けられたが、結局はドナルドは譲歩を余儀なくされた。彼はロス伯爵領に対する権利を放棄し、スコットランド王家に臣従せざるを得なくなった。

アレクサンダー - 屈伏 -

ドナルドの息子アレクサンダーは、父の意志を継ぎ、ロス伯爵領を獲得した。しかし、スコットランド王ジェームズ 1 世は、それを見過ごすことが出来ない。インヴァネスで開催された議会に出席するために姿を見せたアレクサンダーは、王によって逮捕され、王に臣従することを約した上で釈放された。

自由を回復したアレクサンダーは、武力に訴えた。しかし、彼は再び捕えられ、エディンバラに連行された。 1429 年のことである。彼はタンタロン城に監禁された。




ドナルド - 反旗 -

アレクサンダーが幽閉されて 2 年も経たないうちに、アイランダー達は王に反旗を翻した。その指導者はアレクサンダーの従兄弟のドナルドである。

当初は優勢を誇ったアイランダー達だが、やがては島に撤退せざるを得なくなった。指導者のドナルドはアイルランドに逃走した。

スコットランド王ジェームズ 1 世は、自ら軍を率いて反乱の鎮圧に向かった。ドナルドに荷担していた族長達は、王に屈伏することになった。アイルランドに逃走したドナルドの首が、王の前に引き出された。(しかし、首は偽物だったとの説もある。)

ジェームズ 1 世は、タンタロン城に幽閉されていたアレクサンダーを解放し、島の領主の地位に復帰させた。アレクサンダーは 1447 年に亡くなった。

ジョン - 独立宣言、しかし -

アレクサンダーは 3 人の息子を残した。父の後を継いだのは、長男のジョンである。次男はヒュー。兄の暗殺を図って露見し、スカイ島のドントルン城の土牢で死んだ人物である。

新しい島々の君主ジョンは、スコットランド王家に反旗を翻した。本土に侵攻した彼は、アークハート城を含む王家の城を攻め落とし、独立を宣言した。

しかし、ジョンと共に王家に反旗を翻した貴族達は、次々と脱落していった。まず密かにジョンを支援していたダグラス伯爵が、エディンバラ城において殺された。クロフォード伯爵の軍も敗れ去った。ジョンにとって致命傷となったのは、息子アンガス・オグの反逆である。数年間に渡って独立的な勢力を維持したジョンも、王家に屈伏し臣下とならざるをえなくなった。

アンガス・オグ - 徹底抗戦 -

ジョンの息子アンガス・オグは、父に代わって島々の支配を委ねられていた。彼は父の地位を奪い、自ら島々の支配者と称した。同時に彼は王に対する臣従も否定した。策略を以ってインヴァネス城を奪い取ったアンガス・オグは、「島々の王」と称した。

更にアンガス・オグは、インヴァネス近くのブレア城まで奪っている。

やがてアンガス・オグは島々に引き上げた。しかし、アンガス・オグは、父ジョンをそそのかしてイングランドとの交渉に入らせる。1462 年、イングランドと「島々の王」との間に条約が成立した。スコットランド全土を征服し、更には分割することが約された。

1473 年、アンガス・オグは戦いを再開した。しかし、協力を約束したイングランドは動きを見せなかった。

1475 年、エディンバラでの議会において、アンガス・オグは反逆者であるとされた。クロフォード伯爵とアトール伯爵の軍が、アンガス・オグの反乱を鎮圧するために派遣された。

父ジョンはスコットランド王と妥協し、父祖伝来の領地と島々の君主の地位を保つことを許された。

しかし、息子アンガス・オグは、あくまでも反逆を続けた。伯爵達と父ジョンの軍が鎮圧に向かったが、アンガス・オグは決して敗れなかった。そのアンガス・オグも 1490 年頃に命を落とした。暗殺者は、アイルランドのハープ奏者だった。

アレクサンダー - 敗北 -

アンガス・オグの後を継いだのは、従兄弟のアレクサンダーである。アレクサンダーは、父ジョンの末弟セレスティンの息子であり、ロッハルシュの領主だった。

1491 年、ハイランドの兵を率いたアレクサンダーは、インヴァネスに進撃し、王家の城を奪い取った。しかし、マッケンジー家との戦いの際に、アレクサンダーは傷を負った。

1493 年、エディンバラでの議会において、島々の君主の称号と領地は没収された。

1494 年、スコットランド王ジェームズ 4 世の前に姿を見せた老ジョンは、全ての領地を返上した。彼は王の領地に住み、年金を受け取り、 1498 年に亡くなっている。

反乱を鎮めた王ジェームズ 4 世は、1495 年に自らハイランド西部を訪れ、ハイランドの族長達の臣従を受け入れた。王はドウナヴァーティの城に守備隊を置いた。しかし、マクドナルドの支族で小さな島の領主ジョンは、その城を落とし、王の城代を縛り首にした。ジョンと 4 人の息子達は、エディンバラに連行され、反逆罪により処刑されている。

1497 年、ロッハルシュの領主であるアレクサンダーが、再び反乱を起こした。しかし、ロスの地で敗れ、しばらくは抵抗を続けたものの最後には殺されている。

ドナルド・ダブ - 再び敗北 -

1501 年、監禁を逃れたドナルド・ダブが、一族の前に姿を現した。幼少時より監禁されていた彼は、老ジョンの孫であり、ハープ奏者に暗殺されたアンガス・オグの息子である。ドナルド・ダブは、アイランダー達によって正当な君主の後継者として受け入れられた。(しかし、王の政府は、ドナルド・ダブがアンガス・オグの息子であることを否定している。)

1503 年、ドナルド・ダブに率いられたハイランド西部の人々が反乱を起こした。王は多くの伯爵達に鎮圧を命じた。

1505 年、スコットランド王ジェームズ 4 世は、自ら軍を率いて反乱を鎮圧した。再び捕えられたドナルド・ダブはエディンバラ城に連行され、 40 年近くを牢獄で生きた。これ以後、島々の支配者マクドナルド家の勢力は急速に衰えた。

ドナルド・ガルダ - 更なる敗北 -

反乱を繰り返して殺されたロッハルシュの領主アレクサンダーの幼い息子達は、王に捕えられ、王家の領地で育てられた。長男ドナルド・ガルダは、スコットランド王に許され、父の領地を相続した。

1513 年、ドナルド・ガルダは王に反旗を翻した。彼は島々の支配者と称した。彼の支持者は、次第に増えていった。

1515 年、アーガイル伯爵の仲介により、ドナルド・ガルダは王と和解し、反旗を降ろした。

1517年、ドナルド・ガルダは再び反旗を掲げた。しかし、島の人々の支持を得ることは出来なかった。

1518 年、ドナルド・ガルダの死と共に反乱は終息した。

ドナルド・ゴルム - 挫折 -

1539 年、マクドナルドの支族の出身のドナルド・ゴルムが島々の君主を称して反乱を起こした。多くの兵を率いて、彼は本土に攻め込む。しかし、アイリーン・ドナン城を攻める際に受けた矢傷のために、彼は命を落とし、反乱は終息した。(ドナルド・ゴルムは、スカイ島のドントルム城に現れる幽霊の一人である。)

ドナルド・ダブ - 終幕 -

1543 年、ドナルド・ダブが再び一族の前に姿を見せた。 40 年近く続いた監禁を逃れてきたのである。島の人々は歓喜を以って彼を迎えた。彼は、再び島々の君主と称した。

1545 年、ドナルド・ダブはイングランドと同盟を結ぶ。

同年、彼はアイルランドに渡った。そこでの戦闘の最中に彼は命を落とした。その死を以って、島々の君主の直系は途絶えた。

サマーレドの子孫が、再び島々を支配するという夢は消えてしまった。これ以後のマクドナルド一族は、支族の間の嫉妬・不和・対立に明け暮れることになる。

【参考】都市別ツアー


【参考】ホテル検索



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