東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

スコットランドの旅(イギリス)

13. ロッホ・レーベンと女王メアリーが幽閉された城

ロッホ・レーベン(湖)の白鳥

スクーン・パレスのあるスコットランドの古都パースから南に 11マイル( 18km)ほど走れば、湖ロッホ・レーベン(下の画像)に到着する。

スコットランド女王メアリー・スチュアートが幽閉された湖ロッホ・レーベンの白鳥(イギリス)

「ロッホ」というのは、スコットランドの言葉で湖のこと。だから、「ロッホ・レーベン」はレーベン湖ということになる。(ついでながら、ネス湖はロッホ・ネスだね。)

このロッホ・レーベン、白鳥がのんびり泳ぐ一見したところ平和な湖だよね。でも、この湖に浮かぶ島に悲劇のスコットランド女王メアリー・スチュアートが幽閉されていたこともある、実は哀しい湖なんだ。

ロッホ・レーベンに浮かぶ島の小さな城

ロッホ・レーベンの湖岸にある船着場からモーターボートに乗り、湖に浮かぶ島に渡る。下の画像がその島にある小さなお城だ。

スコットランド女王メアリー・スチュアートが幽閉された湖ロッホ・レーベンの城(イギリス)

この小さな城に悲劇のスコットランド女王メアリー・スチュアートが幽閉されていたということか。このメアリー・スチュアートは、一時はスコットランド女王にしてフランス王妃だった。ご主人は後のフランス王フランソワ2世(父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディチ)だった。その頃のフランス王家は、ロワール川のほとりの美しいブロワ城などで過ごしていた。メアリー・スチュアートが幸せだった頃なのかな。

女王メアリー・スチュアートが幽閉されていた城の内部

スコットランド女王メアリー・スチュアートが幽閉された湖ロッホ・レーベンの城の内部(イギリス) そのロッホ・レーベン城の内部が右の画像なんだ。メアリー・スチュアートがこの城に幽閉されていた頃には、もっと優雅な装飾が施されていたと信じたいけど ・・・。

ちなみに、メアリー・スチュアートは西暦1567年6月15日に反乱軍に投降し、このロッホ・レーベン城に幽閉されている。その後、7月26日にスコットランド女王の王位を廃位された。

つまり、この城に入る時にはメアリーは女王だった。幽閉の身ではあっても、それなりの扱いは受けたと思いたいよね。

彼女が廃位された3日後の7月29日、彼女の息子がスコットランド王ジェームズ6世として即位している。その時点で王は満1歳だった。(余談ながら、彼は西暦1603年にイングランド王ジェームズ1世としても即位した。)

ちなみに、スコットランド女王メアリー・スチュアートが廃位された理由なんだけど、彼女がローマの教皇をトップとするカトリックに執着したことだったみたい。当時のスコットランドでは、プロテスタントのジャン・カルヴァンの教えが広まっていた。でも、女王メアリーは自分の信じるカトリックを人々にも強制しようとした。そこで廃位されたというわけだ。

更には、女王メアリーの孫でイングランド王ともなっていたチャールズ1世も、同様にスコットランドにカトリック的な信仰を復活させようとした。その結果としてスコットランドの議会とぶつかり、更には戦費の調達などを契機にロンドンのイングランド議会ともぶつかり、やがては清教徒革命でチャールズ1世が処刑されるに至ったわけだね。16世紀は宗教改革をめぐってヨーロッパ各地で多くの血が流されたんだ。

ロッホ・レーベン城の前の船着場からレーベン湖を眺めた

下の画像は、ロッホ・レーベン城の前にある船着場からレーベン湖を眺めた風景。ちなみに私はたそがれているわけではなくて、湖岸からやって来る船を待っているんだけどね。

スコットランド女王メアリー・スチュアートが幽閉されたロッホ・レーベン城の船着場と湖(イギリス)

このレーベン湖の島のロッホ・レーベン城に幽閉されていた元スコットランド女王メアリー・スチュアートは、こうして船着場でたそがれる程度の自由はあったんだろうか。それとも、ずっと城の中に軟禁されていて、外を自由に歩くことも出来なかったのかな。

ロッホ・レーベン城の船着場から船出

やがて待っていた船が到着し、その船から撮影したロッホ・レーベン城と船着場が下の画像だ。

スコットランド女王メアリー・スチュアートが幽閉されたロッホ・レーベン城を船から眺めた(イギリス)

このロッホ・レーベン城に幽閉されていた元スコットランド女王メアリー・スチュアートも、西暦1568年5月に城から脱出したらしい。この城に11ヶ月に渡って幽閉されていたということだね。

自由を回復したメアリー・スチュアートは、軍を集めて権力奪還を図った。しかし、あっさり敗れて彼女はイングランドのエリザベス女王を頼って行ったんだそうな。でも、結局のところは西暦1587年にイングランドで処刑されている。

レパントの海戦の英雄とメアリー・スチュアート

そんなメアリー・スチュアートがイングランド女王エリザベス1世の保護下あるいは幽閉下にあった頃、スペイン領ネーデルラント(今のベルギー)に総督として着任した人物がいた。それがレパントの海戦の英雄ドン・フアン・デ・アウストリアだった。ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の庶子にして、スペイン王フェリペ2世の異母弟にあたる人物だ。

当時のネーデルラントでは、ジャン・カルヴァンの教えに従うプロテスタントが、カトリックの盟主たるハプスブルク家に対して反乱を起こしていた。それを支援していたのが、ヘンリー8世の時代にローマ教皇と訣別していたイングランドだった。

当時のイングランドの君主は、女王エリザベス1世だった。でも、その母アン・ブーリンとヘンリー8世の結婚は、カトリックの立場からは認められず、従ってエリザベス1世は王位継承権を持たないと言われていた。対して、正統な王位継承権者はヘンリー7世の孫にあたるメアリー・スチュアートだというのがカトリックの主張だった。

ネーデルラントに着任したドン・フアン・デ・アウストリアは、そんなメアリー・スチュアートと結婚し、彼女をエリザベス1世に代えてイングランド女王に即位させることを考えた。その即位によってイングランドをカトリックに復帰させ、ネーデルラントのプロテスタントへの支援を打ち切らせようという構想だった。ローマ教皇グレゴリウス13世も賛同していたんだそうな。

ところが、そのドン・フアン・デ・アウストリアが西暦1578年に亡くなり、彼の計画はあっけなく消えてしまったんだけどね。その9年後に元フランス王妃にして元スコットランド女王だったメアリー・スチュアートはイングランド女王エリザベス1世によって処刑されたわけだ。


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