東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
ローマ と ポンペイ (イタリア)
1997 年 3 月
ローマ略年表 -5 [ 17世紀から19世紀 ]
- 1615年、伊達正宗が派遣した支倉常長がイタリアに到着。ローマに於いて教皇に拝謁し、また元老院よりローマ市民権を与えられた。
- 1626年、サン・ピエトロ大聖堂完成。
- 1648-1651年、ベルニーニがナヴォーナ広場にある四大河の噴水を制作した。
- 1732-1762年、トレヴィの泉が築かれた。
- 1798年、ナポレオン軍によって捕えられた教皇ピオ6世がヴァランスの街に幽閉され、翌年に亡くなった。
- 1809年、ローマ教皇領がナポレオンのフランス帝国に併合された。ナポレオンを破門した教皇ピオ7世は囚われの身となった。
- 1848年、革命運動の高まりの中で教皇がローマを脱出し、ローマでは共和主義的な政府が組織された。
しかし、翌年にはフランス軍がローマを占領し、1850年には教皇がローマに帰還した。
- 1860年、ガリヴァルディの率いる赤シャツ隊がジェノヴァ近郊の港を出港し、同年5月11日にシチリアに上陸した。
やがて彼らは両シチリア王国をブルボン家の支配から解放し、統一イタリア王国に献じた。
- 1861年、ガリヴァルディとカヴールの貢献により、サルディニア王国がイタリアを統一し、統一イタリア王国が誕生した。しかし、ローマ教皇領はあくまでも独立の地位を保とうとし、教皇はヴァティカンに閉じこもった(「ヴァティカンの捕囚」)。
右の画像は、統一イタリア王国の初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の像。
ミラノのドゥオモ広場に立っている。
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- 1866年、ヴェネツィアがイタリア王国に併合された。イタリア統一の完成のために、残されたのはローマだけとなった。
- 1867年10月、既に老齢となっていた英雄ガリヴァルディが、義勇兵を率いてローマへの進軍を始めた。
他方、ナポレオン3世が派遣したフランス帝国軍は、教皇のローマを守るために、ローマへ向かっていた。しかし、フランス帝国との衝突を恐れる統一イタリア王国は行動を起こさなかった。
同年11月3日、ローマ近郊で教皇庁軍・フランス帝国軍とガリヴァルディ義勇軍が衝突した。しかし、数においても装備においても劣勢にあるガリヴァルディ義勇軍は惨敗を喫した。
- 1870年9月20日、統一イタリア王国の部隊がローマを占領。ついにローマはイタリア王国に併合された。
- 1871年、統一イタリア王国の首都が、フィレンツェからローマに移された。
- 1873年、明治政府により派遣された岩倉具視使節団がイタリアに滞在した
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