東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」

11. 古都ラヴェンナにあるダンテの墓とドゥオモ

また雨だし、寒いし、トイレが無いし ・・・

東ゴート族の王テオドリックゆかりのサンタポリナーレ・ヌオヴォ教会と6世紀のモザイク画を堪能し、再び歩き始める。が、やんでいた雨が再び降り始めた。その冷たい雨に打たれながら、古都ラヴェンナの細い道を歩く。身体が冷えればトイレにも行きたくなる。が、日曜日ということもあり、営業しているカフェも見当たらない。

ようやく見つけ出した明るいカフェに入り、熱いカフェ・コン・レチェ(早い話がカフェ・オ・レ)を注文。すぐさま「トイレはどこかな」と尋ねる私たちに、「このカフェにはトイレは無い」との冷たい答 ・・・ 絶句。熱い飲み物にはほっとした。が、トイレが無いのには困った。それでもじっと我慢の観光を再開する私たちだった。

神曲で名高いダンテの墓

古都ラヴェンナの街を歩き、細い通りの向こうに見えてきた白い墓(下の画像の中央)。

イタリアの古都ラヴェンナにあるダンテの墓

叙事詩「神曲」で名高いダンテはここに葬られているんだそうな。ダンテは西暦1318年頃からラヴェンナに住み、「神曲」を完成させた直後、西暦1321年にこの街で亡くなったらしい。

フィレンツェを追放されたダンテ

ダンテ・アリギエーリは西暦1265年にフィレンツェで生まれた。父は小貴族だった。ラテン文学や論理学などを学んだダンテは、ボローニャ大学に入学。そこで哲学や法律を勉強している。

やがてフィレンツェに戻ったダンテは、市の政治にも関与している。西暦1300年にはフィレンツェの統領の一人にもなっている。ところが、フィレンツェにおける派閥の争いの結果、西暦1301年にはダンテはフィレンツェから永久追放されてしまった。

ダンテはイタリア北部のあちこちを流浪している。西暦1318年、古都ラヴェンナにやって来たダンテは、当時の街の支配者グイド・ノヴェッロ・ダ・ポレンタの保護を得た。こうしてラヴェンナに住み始めたダンテは、既に執筆を始めていた代表作「神曲」を西暦1321年に完成させた。ちなみに、その「神曲」の中でダンテはラヴェンナのモザイク画のことを「色彩のシンフォニー」と表現しているそうな。

「神曲」の執筆を終えたダンテはヴェネツィアに派遣された。その旅の途中で病を得たダンテは、ラヴェンナに戻ってきて間もなく亡くなってしまった。その遺骸はラヴェンナに葬られたというわけだ。

それから200年ほどの歳月が流れた西暦1519年のこと。フィレンツェのメディチ家出身だったローマ教皇レオ10世は、ラヴェンナに葬られたダンテの遺骨をフィレンツェに返還すべく命じたそうな。でも、ラヴェンナの人々はダンテの遺骨を隠し、返還を拒否したとか。

その後もフィレンツェは遺骨の返還を求め続けている。でも、ラヴェンナは拒否し続けている。他方で、ラヴェンナにあるダンテの墓の燈明の費用はフィレンツェの人々が支払っているという話もあるんだけどね。

ラヴェンナのドゥオモ(大聖堂)

ダンテの墓から 300mほどのところに、古都ラヴェンナのドゥオモ(大聖堂)がある。18世紀に建てられたというその建物が下の画像だ。

イタリアの古都ラヴェンナのドゥオモ(大聖堂)

イタリアのあちこちの街でドゥオモといえば観光客が集まる場所だよね。でも、このラヴェンナのドゥオモには観光客の姿は無い。でも、トイレはある。おかげで私たちも救われたわけだ。神様に感謝だね。

そして、このドゥオモの隣にある大司教館付属博物館。この博物館は古都ラヴェンナを訪れた観光客の必見の場所だね。その博物館にあるお宝を今から見に行くわけだ。


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