とうとうピッティ宮殿にやって来たフィレンツェを流れるアルノ川にかかるヴェッキオ橋を渡り、開店準備中の土産物屋の邪魔をしながら10分ばかり歩けば、ピッティ宮殿(下の画像)に到着した。
とうとうやって来たピッティ宮殿 ・・・ 。というのも、私たちにとってはここは因縁の場所。3年前のイタリア旅行でフィレンツェに滞在した時、当然ながらこのピッティ宮殿に来る予定でいた。その中にあるパラティナ美術館に入るつもりだった。
メディチ家ゆかりのピッティ宮殿そのピッティ宮殿の入口で荷物を預け、建物の中に入る。その廊下の様子が下の画像なんだ。圧倒するほどのサイズはともかくとして、意外に装飾が少なくて簡素だよね。
でも、このピッティ宮殿はフィレンツェの名家であるメディチ家や近代統一イタリア王国の王家ともゆかりの建物だったりするんだ。
ピッティ宮殿とメディチ家・イタリア王家西暦1458年、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティによってピッティ宮殿の建設が始まった。ところが西暦1472年にルカ・ピッティが亡くなった。その時点でピッティ家の財政状態は悪化しており、宮殿建設も中断されてしまった。西暦1549年、病弱な妻エレオノーラ・ディ・トレドの為にメディチ家のフィレンツェ大公コシモ1世が荒れ果てていたピッティ宮殿をピッティ家の子孫から買い取り、建設工事を再開した。やがてここに移り住んだコシモ1世は、この建物を大きく拡張させ、この宮殿とウフィツィ美術館(当時はオフィス)とを結ぶヴァザーリの廊下を築かせている。 その後もメディチ家のフィレンツェ大公(西暦1555年にシエナを征服し、西暦1569年からはトスカナ大公となった)はピッティ宮殿に住み、建物を拡張し、その背後の土地を買い取ってボボリ庭園を整備している。 そして西暦1671年、ピッティ宮殿で生まれたのがジャン・ガストーネ・デ・メディチだった。彼は西暦1723年にトスカナ大公となっている。西暦1737年、トスカナ大公ジャン・ガストーネがピッティ宮殿で亡くなった。メディチ家最後のトスカナ大公だった。トスカナ大公国はハプスブルク・ロレーヌ家のフランツ・シュテファン(後の神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世)が継承した。 西暦1743年、故ジャン・ガストーネの姉のアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチがピッティ宮殿で亡くなった。この建物に住んだ最後のメディチ家の人物だった。そんな彼女の遺言の中には、メディチ家の美術品コレクションはフィレンツェから運び出すことを許さず、更には公開を求める条項があった。その結果、1833年からパラティナ美術館が公開されたらしい。 その後、西暦1860年にフィレンツェを含むトスカナはサルディニア王家に帰属することになった。その王家の下に西暦1861年に成立したのが近代統一イタリア王国だった。そして西暦1865年にはイタリア王国の首都がフィレンツェに移され、このピッティ宮殿に王家の人々が住むことになったわけだ。でも、西暦1870年にはイタリア王国がローマを併合し、その翌年には王家の人々はローマに移って行ったんだけどね。 無主となったピッティ宮殿なんだけど、西暦1919年にはイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世によって国家に寄贈されている。そのおかげで私たち庶民もこの建物の中を歩きまわることが出来るわけだね。
いよいよパラティナ美術館へ歴史の話が長くなってしまったけど、いよいよ念願のパラティナ美術館に入っていこう。下の画像はそのパラティナ美術館の中のプロメテウスの間なんだけど、飾り気の無い廊下とは対照的に華やかな空間だよね。
しかも、無数の絵画がなんとも無造作に乱雑に壁にかけてある。その中には名高い画家の著名な絵画もあるんだ。例えば、上の画像には円形の絵画が2点見えているけど、左側の作品は画家フィリッポ・リッピの「聖母子と聖アンナの生涯の物語」だったりする。
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