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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」
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- 1458年、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティが、アルノ川の南岸にあるボボリの丘に宮殿を建てることを計画した。彼の依頼によりピッティ宮殿を設計したのはフィリッポ・ブルネレスキだった。その設計に従って建設工事を指揮したのは、ルカ・ファンチェッリだった。
- 1472年、ルカ・ピッティが亡くなり、ピッティ宮殿の建設工事が中止された。
- 1478年、パッツィ家の陰謀。
- 1549年、フィレンツェ大公コシモ1世の夫人エレオノーラ・デ・トレドがピッティ宮殿を買い取った。病弱な婦人の為に大公が宮殿を買い取ったとする資料もある。未完成だったピッティ宮殿を完成すべく起用されたのは、バルトロメオ・アンマンナーティだった。
- 1560年、まだ工事の続いているピッティ宮殿にフィレンツェ大公一家が移った。エレオノーラ大公妃は、宮殿の裏にあるボボリ庭園を散歩するのが大好きだった。
- 1565年、ピッティ宮殿とヴェッキオ宮殿とを結ぶヴァザーリの廊下が完成した。
- 1569年、フィレンツェ大公コシモ1世がトスカナ大公とされた。コシモ1世は1555年にはシエナをも征服し、トスカナの大部分を支配下に入れていた。
- 1620年、トスカナ大公コシモ2世の命により、ジュリオ・パリージがピッティ宮殿の改装工事を担当した。
- 1737年10月31日、第7代トスカナ大公ジャン・ガストーネが死去。彼はメディチ家最後のトスカナ大公だった。ジャン・ガストーネの死に伴ってトスカナ大公位を継承したハプスブルク・ロレーヌ家の大公がピッティ宮殿に移り住んできた。
- 1743年2月、ピッティ宮殿の一角に住んでいたアンナ・マリーア・ルイーズ・デ・メディチが死去。彼女こそがピッティ宮殿に住んだ最後のメディチ家の人物だった。
- 1796年、ナポレオンがイタリア遠征を行った。イタリアを支配下に置いたナポレオンは、後にメディチ家の美術品コレクションの一部をフランスに持ち去っている。その中には未だにイタリアに返還されていないものもあるとか。
- 1828年、ハプスブルク・ロレーヌ家のトスカナ大公レオポルト2世により、ピッティ宮殿の一角にあったパラティナ美術館が一般公開された。そこで公開された多くの作品の殆んどはメディチ家によって収集されたものだった。
- 1865-1871年、フィレンツェが統一イタリア王国の首都だった時代には、このピッティ宮殿は国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の王宮として使われた。
- 1870年、統一イタリア王国がローマを占領し併合した。その翌年にはローマが首都となり、国王はフィレンツェからローマに移っている。
- 1915年、イタリア王家がピッティ宮殿を国家に寄贈。
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