東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」

小さな共和国サン・マリノの略年表

  • AD 4世紀、ダルマツィア地方の石工マリヌスは、リミニの港の工事の為にアドリア海を渡った。しかし、キリスト教徒だった彼は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによる迫害を逃れるためにチタン山に逃れた。

    やがて彼を慕う人々がチタン山に集まり、彼らは集団生活を始めた。マリヌスの死後も彼らは集団生活を続け、それがサン・マリノの起源となった。(サン・マリノ共和国の建国は西暦301年とされている。)

  • AD 951年、ベレンゲールの文書に、サン・マリノの山上にある城砦と街が記されていた。

  • AD 1126年、教皇ホノリウス2世の勅書に、城壁に囲まれたサン・マリノの街が登場。

  • AD 1257年、ギベリン(皇帝派)だったサン・マリノを、教皇インノケンティウス4世が破門。

  • AD 1259年、サン・マリノの破門が解かれた。

  • AD 1371年、アングリコ枢機卿の残した報告書の中に、サン・マリノの山上にある三つの城砦が言及されている。

  • AD 1461年、サン・マリノは教皇と同盟していた。

  • AD 1463年、リミニの領主マラテスタ家のシジスモンド・バンドルフォ・マラテスタがサン・マリノを攻略しようとしたが、その軍を撃ち破ったサン・マリノが独立を維持した。しかも、この戦いの勝利によって、マラテスタの二つの城も奪い取っている。

  • AD 1503年、ボルジア家のローマ教皇アレクサンドル 6世の息子にしてイタリア乱世の英雄チェーザレ・ボルジアの支配下に入った。しかし、教皇の死と共にチェーザレ・ボルジアの勢力が弱まったことに乗じて、サン・マリノが独立を回復した。

  • AD1542年、ファビアノ・ダ・モンテ・サンサビノがサン・マリノに対する奇襲を試みた。しかし、濃霧の為に奇襲は失敗し、サン・マリノは独立を維持した。

  • AD1631年、教皇ウルバヌス8世がサン・マリノの独立を承認した。

  • AD1739年、枢機卿ジューリオ・アルベロニがサン・マリノを占領。しかし、教皇クレメンス12世の介入により枢機卿は軍を撤退させ、サン・マリノは独立を回復した。

  • AD1815年、フランス皇帝ナポレオンの没落を受けて開催されたウィーン会議に於いて、サン・マリノの独立が確認された。

  • AD1849年、ローマ共和国が崩壊し、イタリア統一運動の英雄ジュゼッペ・ガリバルディの部隊がオーストリア軍に追われてサン・マリノに逃げ込んできた。しかし、ガリバルディが部隊を解散したことにより、オーストリア軍のサン・マリノに対する攻撃は回避された。

  • AD1854年、教皇ピオ9世は、先にガリバルディを保護しようとしたサン・マリノを「自由主義者の巣窟」として糾弾し、トスカナ大公に命じてサン・マリノの占領を企てた。しかし、当時のフランス皇帝ナポレオン3世の介入により、サン・マリノは危機を脱することが出来た。

  • AD1861年、統一イタリア王国が成立した。でも、サン・マリノは独立の共和国として地位を維持した。

  • AD1944年、ローマを攻略した連合国軍は、サン・マリノにも空爆を加えている。その3ヵ月後にはドイツ軍がサン・マリノを一時的に占領している。小さいながらも独立の共和国サン・マリノは大戦中も中立を貫いたんだけどね。

  • AD1992年、サン・マリノ共和国が国連に加盟した。


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