サレルノのドゥオモ(大聖堂)の売店の親切なおじさんさて、サレルノのドゥオモ(大聖堂)の正面祭壇やモザイク画を見たら、次は地下にあるクリプトだね。バロック式の華麗なクリプトには、聖マタイのお墓があるはずなんだ。ところが、側廊にある地下のクリプトへの入口は閉まっている。その入口が開くのは10時みたい。仕方がない。ドゥオモ(大聖堂)の前庭に出て、時間までブラブラしていよう。 やがて10時まで数分となった。前庭に面した売店のドアが開いた。その売店で土産物でも買おう。サレルノの絵葉書を数枚とドゥオモ(大聖堂)の歴史に関する資料を選び、売店の係のおじさんにお金を払う。 ついでに「ドゥオモ(大聖堂)の地下のクリプトは10時になったら入ることが出来るんですよね。」と尋ねてみた。売店の係のおじさん、「あ、クリプトに入りたいのか。じゃ、ついでおいで。」と歩き始めた。 私たちを側廊に待たせ、おじさんは何処かへ消えていった。やがて戻ってきたおじさんの手にはジャラジャラと鍵の束。その中の一つを選び出したおじさんは、地下のクリプトへと降りて行く扉を開いてくれた。親切なおじさん、どうも有り難う。
サレルノのドゥオモ(大聖堂)の地下に華麗なバロック式のクリプト親切なおじさんが開いてくれた扉を抜け、地下へと向かう階段を下りて行く。そこで眼にしたクリプトの様子が下の画像なんだ。華麗なバロック様式のクリプトなんだそうな。![]()
上の画像の正面奥に見えているのは、わざわざ書くまでもないかもしれないけど、聖マタイのお墓だね。このサレルノのドゥオモ(大聖堂)が捧げられた人物でもあり、ここのお宝でもある。
なぜにサレルノに聖マタイのお墓があるのか ・・・一説によれば、聖マタイはエチオピアで布教中に殉教したとか。古代ローマ帝国皇帝ネロによるキリスト教徒迫害から、多くの人々が殉教していたんだけど、聖マタイもその一人となったんだね。でも、何故にそのお墓がサレルノのドゥオモ(大聖堂)の地下のクリプトにあるのか ・・・ 。さっき売店で買った資料を読んで調べたんだ。その資料が英語で書かれている上に、かなりのイタリア語が混じり込んでいて、とっても苦労したよ。でも、要はこういうことみたい。 4世紀頃、聖マタイが殉教したエチオピアから、彼の遺骸がイタリアに運び込まれた。でも、西ローマ帝国の崩壊の後、イタリアは混乱していた。北からはゲルマン系西ゴート族が侵入し、南のアフリカからはイスラム教徒の襲撃があり、聖マタイの遺骸はあちこちを転々としていた。 そして西暦954年、ロンバルディア族のサレルノ公ジズルフォ1世は、各地を転々としていた聖マタイの遺骸をサレルノに運び込んだ。そのサレルノ公の子孫ジズルフォ2世の妹と結婚したのが、フレンチ・ノルマン系(つまりヴァイキングの子孫)のロベール・ギスカールだった。 西暦1076年、ロベール・ギスカールはサレルノを征服した。ローマ教皇グレゴリウス7世は、サレルノを征服したロベール・ギスカールを非難した。ところが、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世と対立した教皇は、ロベール・ギスカールと和解し、西暦1080年には彼のサレルノ征服を認めてしまった。 その同じ西暦1080年、いつの間にか忘れ去られていた聖マタイの遺骸が、サレルノ大司教アルファノ1世によって再発見された。それを聞いた教皇グレゴリウス7世は、ロベール・ギスカールに聖マタイの遺骸を安置するドゥオモ(大聖堂)の建立を勧めた。ロベール・ギスカールはその教皇の言葉に従ったわけだ。 そして西暦1085年、サレルノのドゥオモ(大聖堂)が聖別された。その年、ローマ教皇グレゴリウス7世、ロベール・ギスカール、サレルノ大司教アルファノ1世の3人が相次いでこの世を去った。彼ら全員が天国に行ったかどうか、定かではないけどね。
サレルノのドゥオモ(大聖堂)の地下のクリプトで見た聖マタイの像そんなわけで、このサレルノのドゥオモ(大聖堂)の地下のクリプトには聖マタイのお墓がある。![]()
そのお墓にお参りすれば、上の画像にある聖マタイの像を目にすることになるわけだ。
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