ベルニーニによる聖ペテロの司教座(カテドラ・ペトリ)イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂の奥に進み、ベルニーニのブロンズのバルダッキーノ(天蓋)の脇から最奥部の後陣(アプス)を眺めた様子が下の画像なんだ。
聖ペテロの司教座(早い話が椅子)を中央に取り込んだこの作品も、やはりバロックの巨匠ベルニーニの作品なんだ。但し、中世の人々には聖ペテロに由来すると信じられていたこの「聖ペテロの司教座」なんだけど、20世紀の調査によれば、実は9世紀のものとされている。フランク王国のシャルル禿頭王(皇帝として戴冠を受けたカール大帝の孫)が教皇庁に贈ったものと推測されているらしいよ。
4人の博士に支えられた聖ペテロの司教座更に後陣(アプス)に近づき、もう少し間近にベルニーニの聖ペテロの司教座を眺めたのが下の画像だ。
中央に取り込まれた中世の椅子は、4人の博士たちによって支えられている。その4人とは、神学の基礎を築いた聖アンブロシウス(手前左)、聖アウグスティヌス(手前右)、聖アタナシウス(奥左)、聖クリソストムス(奥右)なんだそうな。
ローマ教皇アレクサンデル7世とベルニーニイタリアのバロック美術の巨匠となるベルニーニにブロンズのバルダッキーノ(天蓋)を制作させ、ベルニーニを大きく育て上げたローマ教皇ウルバヌス8世は西暦1644年に亡くなってしまった。その後任の教皇インノケンティウス10世は、芸術に熱意を持たず、ローマの美術界の寵児となっていたベルニーニにも不遇の時代がやってきたらしい。そんなベルニーニを再びローマのバロック美術の柱として復活させたのが、次の教皇となったアレクサンデル7世だった。ベルニーニにサン・ピエトロ広場の設計を依頼し、聖ペテロの司教座の制作を命じたのも、ローマ教皇アレクサンデル7世だった。
そんなローマ教皇アレクサンデル7世が亡くなった後、その墓(上の画像)を作ったのもベルニーニだった。完成したのが西暦1678年のこと。もちろん、サン・ピエトロ大聖堂の中で見ることができる。
ローマのバロックの衰退とベルニーニの死ローマ教皇ウルバヌス8世と並んでバロックの芸術家としてのベルニーニを育て上げたとも言える教皇アレクサンデル7世は、西暦1667年に亡くなった。その後継者クレメンス9世は、ベルニーニとは旧知の仲だったこともあり、彼にサンタンジェロ橋の装飾を依頼している。西暦1670年、ローマ教皇クレメンス10世が即位。教皇庁の財政悪化を食い止めるために、クレメンス10世は芸術関係の支出を削減した。そして西暦1676年に即位した教皇インノケンティウス11世は、更に厳しい緊縮財政を命じ、ベルニーニが計画していたサン・ピエトロ広場の第三の柱廊の建設を中止させたんだ。 教皇庁が緊縮財政を厳しく実施するにつれ、バロック芸術の中心だったローマの活力は衰退し、やがてはフランスの首都パリがバロックの中心となっていった。 そんなローマにおいて、ベルニーニが亡くなったのが西暦1680年11月28日のこと。死の直前、多くの芸術作品を作り上げた彼の右手は麻痺してしまったらしい。そんな右手についてベルニーニは、「長い間働いてきたこの腕が、私よりも先に休むのは当然のことだよ」と語ったんだそうな。 その後、バロック芸術の時代は去り、新古典主義の時代がやって来た。かつてはローマ教皇庁の寵児だったベルニーニの作品は酷評され、「趣味の疫病」とまで言われたんだそうな。そんなベルニーニの作品が再び評価されたのは、20世紀になってからのことだった。
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