東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「カンパーニャとローマ・ヴァティカン」(イタリア)

第四部 ローマ・ヴァティカン編

D29. サン・ピエトロ大聖堂に見る聖人・教皇たちの像・墓

サン・ピエトロ大聖堂で見た聖ペテロ像

サン・ピエトロ大聖堂の中を歩き、ミケランジェロのピエタを見た。ベルニーニのブロンズのバルダッキーノ(天蓋)聖ペテロの司教座も見た。でも、ここにはまだまだ多くの見るべきものがあるね。

特にこのヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂に来てご挨拶を欠かしちゃいけないのが、下の画像にある聖ペテロ(サン・ピエトロ)像だよね。何と言っても、ローマ・カトリック教会の基礎を築いた人物でもあり、この大聖堂の名の由来となった人物でもあるんだからね。

イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で見た聖ペテロ像

このサン・ピエトロ大聖堂で見る聖ペテロ像なんだけど、伝統的にはアルノルフォ・ディ・カンビオ(13世紀から14世紀にかけてのフィレンツェの彫刻家であり、フィレンツェの大聖堂の設計を手がけた人物)が制作したものとされてきたらしい。でも、最近では4世紀頃のシリアの無名の彫刻家の手によるものと考えられているんだそうな。

ところで、聖ペテロ(イタリア語ではサン・ピエトロ)なんだけど、イエス・キリストの最初の弟子だったそうな。その後、布教の為にローマを訪れ、そこで古代ローマ帝国の皇帝ネロによるキリスト教徒迫害によって西暦67年に殉教したとされている。

ローマ・カトリック教会では、そんな聖ペテロを初代ローマ教皇とし、歴代のローマ教皇は聖ペテロの後継者であると考えるわけだ。またヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂の地下には、聖ペテロの墓があるとされている。ベルニーニのバルダッキーノ(天蓋)は、その聖ペテロの墓を覆うものとして制作されたんだ。

ついでながら、20世紀前半に地下墓所で発見されたとされる聖ペテロの遺骨を納めた聖遺物箱が、西暦2013年11月にローマのヴァティカンで公開されたそうな。但し、それが聖ペテロの遺骨であることに否定的な学者もいるみたいだけどね。

聖アンデレ像

ミケランジェロのクーポラ(円屋根)の下、ベルニーニのバルダッキーノ(天蓋)の周囲にある柱の脇にある像の一つが下の画像にある聖アンデレ像なんだ。17世紀にローマで活躍したブリュッセル(今のベルギーの首都)出身の彫刻家フランソワ・デュケノワの作品なんだそうな。

イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で見た聖アンデレ像

ところで、この聖アンデレは聖ペテロの弟だった。黒海沿岸で布教活動を行い、ギリシャ、ルーマニア、ロシアなどの守護聖人とされている。上の画像にも見えるけど、聖アンデレは斜めの十字架で処刑されているんだ。故に聖アンデレを守護聖人とするイギリス北部のスコットランドは斜め十字を国旗としているわけだ。ちなみに、有名なスコットランドのゴルフ場の名前も聖アンデレ(セント・アンドリュー)だけどね。

また、イタリア南部の海辺の街アマルフィもこの聖アンデレを守護聖人としている。西暦1544年にオスマン・トルコの海賊バルバロッサがアマルフィを襲撃して撃退されたんだけど、アマルフィの人々は聖アンデレの加護によるものと考えたらしい。(当時のオスマン・トルコはハプスブルク家の皇帝カール5世と戦っていたフランスを同盟国としていた。)

更には、フランス東部ブルゴーニュ地方の支配者だったブルゴーニュ公フィリップ善良公が設立した金羊毛騎士団の守護聖人も聖アンデレだった。(余談ながら、その騎士団長の地位は、ブルゴーニュ公からハプスブルク家に継承され、今のスペイン国王フアン・カルロス1世に伝えられている。)

新古典主義の彫刻家カノーヴァによるローマ教皇クレメンス13世像

イタリア・バロックの巨匠とされたベルニーニの名声はその死後に急落したと書いたけれども、バロックの凋落と入れ代わりに台頭したのが新古典主義だった。その新古典主義時代のイタリア彫刻を代表するのがアントニオ・カノーヴァ。下の画像はカノーヴァの手によるローマ教皇クレメンス13世の像なんだ。

イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で見たカノーヴァ作の教皇クレメンス13世記念碑

この新古典主義の彫刻家カノーヴァのペルセウス像は、ヴァティカン美術館・博物館ピオ・クレメンティーノ美術館の中の八角形の中庭で古代彫刻の傑作(ラオコーン、ヘルメス像、アポロン像など)と並べて展示されているほどのものなんだ。

では、そんなカノーヴァによって像を彫刻されたローマ教皇クレメンス13世はと言えば、英雄とするよりはむしろ同情したくなる人物だった。ポルトガル(西暦1755年のリスボン地震の復興を仕切ったポンバル侯爵が実権を握っていた)を皮切りにフランスやスペインなどがイエズス会を追放した。ローマ教皇クレメンス13世はイエズス会を擁護しようとしたんだけど、むしろ各国との関係悪化を招いた。その挙句に西暦1769年に病気で急死。穏やかな性格の人物だったらしいけど、それだけにむしろ気の毒だよね。

ポッライウォーロによるローマ教皇インノケンティウス8世の墓

続いては、15世紀後半のイタリア・ルネサンスの画家・彫刻家アントニオ・デル・ポッライウォーロによるローマ教皇インノケンティウス8世のお墓が下の画像だ。

イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で見たポッライウォーロ作の教皇インノケンティウス8世の墓

彫刻家の方は著名なんだそうな。私は良く知らないけど。他方でローマ教皇インノケンティウス8世については、ルネサンス時代のイタリアの歴史家グィッチャルディーニ(「イタリア史」の著者)によれば「無用の人物」とばっさりだとか。世界のカトリックの総本山であるヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂にお墓を作ってもらうのも何だかね ・・・ 。


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