東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「マルタ 聖ヨハネ騎士団の島」

22. 古都イムディナの城壁(マルタ島)

マルタ島の古都イムディナ

ラバトから歩いてやって来たのは、マルタ島の古都イムディナだった。城壁に囲まれたイムディナの街の正門の様子が下の画像なんだ。

古都イムディナの城壁の正門(マルタ共和国)

西暦1565年にオスマン・トルコの大軍がマルタ島の攻囲(グレート・シージ)を始めた時、その総指揮官ムスタファ・パシャはまず古都イムディナを攻略することを主張した。他方、提督ピアリ・パシャはトルコ艦隊の安全な停泊地を確保する為にもグランド・ハーバーの入口を扼する聖エルモ城砦の攻略を求めた。その結果、彼らはその最初の矛先を聖エルモ城砦に向けたわけだ。

ちなみに、この時点では海賊ドラグート(トゥルグト・レイス)はまだ到着していない。やがて彼が到着した後、オスマン・トルコ軍は3人の指揮官を持つことになるわけだけど、彼らの意見の不一致がマルタ島攻囲失敗につながったとも言われているね。

城壁に守られた古都イムディナ

古都イムディナは下の画像のような城壁によって守られている。イムディナに最初の城壁を築いたのは、紀元前7世紀頃にマルタ島を支配下に置いたフェニキア人だった。9世紀後半には島はイスラム教徒によって征服されるんだけど、彼らは更に強固な城壁を築き、それを堀で取り囲んだらしい。ちなみに、街をイムディナと名づけたのもアラブ人だった。

古都イムディナの城壁(マルタ共和国)

西暦1565年の攻囲に先立ち、西暦1551年にもオスマン・トルコ軍はマルタ島に侵攻している。彼らは古都イムディナに攻め寄せたんだけど、その守りの堅さに攻撃を諦めたんだそうな。

マルタ島を見渡す古都イムディナ

古代フェニキア人が古都イムディナを重要視したのは、マルタ島で最も標高が高く、遠くまで見渡すことができるということが理由だったらしい。そんな街を取り巻く城壁の上からの眺めが下の画像なんだ。

古都イムディナの城壁の上からの眺め(マルタ共和国)

古代フェニキア、そしてカルタゴに続いてマルタ島を支配した古代ローマ帝国の総督も統治の中心を古都イムディナに置いた。更にはアラブ人もノルマン人もこの街を島の首都としていたそうな。

そして西暦1530年、皇帝カール5世からマルタ島を与えられた聖ヨハネ騎士団によって島の中心がスリー・シティーズに移された。その後、西暦1565年のオスマン・トルコ軍の侵攻の翌年から建設が始まった要塞都市ヴァレッタが首都とされたのは西暦1571年のことだった。

聖ヨハネ騎士団の最大の危機を救ったイムディナの騎兵部隊

西暦1565年8月7日、聖ヨハネ騎士団が必死に守るスリー・シティーズに対するオスマン・トルコ軍の総攻撃が始まった。その結果、セングレア聖ミカエル城砦の守りは崩壊寸前となってしまった。好機と見たオスマン・トルコ軍の総指揮官ムスタファ・パシャは、精鋭のイェニチェリ部隊に対して突撃命令を下した。

他方で、古都イムディナでは騎兵部隊に対して出撃命令が下されていた。彼らはトルコ軍の偵察部隊を避けて迂回し、グランド・ハーバーの奥に到達。そこで戦闘体勢を整え、トルコ軍の野営地に突撃したんだ。

スリ・シティーズに対する総攻撃の真っ最中だったトルコ軍の野営地は、ほとんど無防備の状態にあった。イムディナの騎兵部隊はテントに火をかけ、病人・負傷者を殺戮し、馬を捕獲した。

オスマン・トルコ軍の総指揮官ムスタファ・パシャが自軍の野営地の壊滅を知ったのは、イェニチェリ部隊に突入命令を下した直後のことだった。しかも、攻撃してきたのはキリスト教徒の大部隊だとの誤報を受けたらしい。スペインのシシリア副王の増援部隊がマルタ島に上陸したと考えたムスタファ・パシャは、総攻撃の打ち切りを命じた。かくして聖ヨハネ騎士団は最大の危機を脱したわけだ。


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