サンクト・ペテルブルク 略年表
- 1703年、ピョートル1世(大帝)がネヴァ川の河口付近からスウェーデン軍を駆逐した。
- 1703年5月16日、ピョートル1世が聖ペテロにちなんで名づけられたサンクト・ペテルブルク建設の礎石を置いた。
新しい街は、やがてロシアにとってヨーロッパの窓となる。
湿地帯での都市の建設は困難を極め、多くの労働者が命を落とした。その為、サンクト・ペテルブルクは「骨の上に築かれた街」とも呼ばれる。
- ピョートル1世がサンクト・ペテルブルクをロシアの首都とした。貴族たちは新しい首都に移るように命じられた。
- ロシアの新しい「ヨーロッパの窓」であるサンクト・ペテルブルクで文化の華が咲き始めた。
- 1812年、ナポレオンのモスクワ遠征。
- 1825年、デカブリストの乱。多くの士官達がペトロパブロフスク要塞の牢に入れられた。
- 1860年代 - 1870年代にかけて、多くの革命家がサンクト・ペテルブルクで活動していた。
- 1881年3月1日、皇帝アレクサンドル2世がテロリストの爆弾により命を落とした。2年後、その現場にキリスト復活教会が建てられた。
- 1905年1月22日、血の日曜日事件。エルミタージュ宮殿の前の広場で多くの群集が軍の一斉射撃により命を落とした。
- 1914年、第1次世界大戦が勃発し、ドイツ的な響きを持つサンクト・ペテルブルクの名が反ドイツ感情から避けられ、よりロシア的な響きを持つペトログラードと改められた。
- 1917年2月、食料を求める群衆が暴動を起こし、人々がエルミタージュ宮殿前の広場に集まった。同年3月15日、皇帝ニコライ2世は退位を余儀なくされ、臨時政府が組織された。
- 1917年10月25日、ネヴァ川に停泊していた巡洋艦オーロラの号砲を合図に、ボルシェヴィキが武装蜂起(ロシア10月革命)し、権力を掌握した。
- 1918年、革命後の内戦が続く中、外国勢力の干渉を避けるために、また帝政時代と決別するために首都がモスクワに移された。
- 1920年、革命後の混乱の中、サンクト・ペテルブルクの人口は、1916年当時と比較して 3分の1になっていた。
- レーニン死去。サンクト・ペテルブルクはレニングラードと改められた。
- ナチス・ドイツがロシアに侵攻。やがて、サンクト・ペテルブルクが包囲された。
- 1944年1月27日、872日間に及んだドイツ軍によるサンクト・ペテルブルク包囲が解かれた。しかし、ドイツ軍はツアールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿やペテルゴフ離宮を廃墟にしていた。
- 1991年、投票により、サンクト・ペテルブルクが「サンクト・ペテルブルク」の名前を取り戻した。(その年、ゴルバチョフ大統領が辞任し、旧ソ連が消滅している。)
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