|
|
|
|
|
東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「秋のベルギー」
ブリュッセルとアントワープ
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
ベルギー
略年表
- BC 57年、ケルト系ベルガエ族を古代ローマのシーザー(カエサル)が征服。ローマから発して、イタリア、そして地中海・ガリアに勢力を広げた古代ローマ帝国は、更にブリテン島にまで進出していくことになる。古代ローマ帝国がブリテン島(イギリス)にロンディニウム(ロンドン)を築いたのが西暦43年のこと。
- AD 5世紀、フランク族が古代ローマ帝国領ベルギーに侵入し、勢力を拡大した。
- AD 870年、シャルルマーニュ(カール大帝)死後に締結されたメルセン条約により、ベルギーは分割され、西フランク王国と中フランク王国によって領有された。
- AD 9世紀、ノルマン人(ヴァイキング)の侵略が活発化した。
防衛のために各地方が自立し、小封建国家となった。フランドル伯領、ブラバント伯領、エノー伯領などの基礎が築かれた。
- AD 977年、ロレーヌ公シャルルが城を築いた。それが後にブリュッセルの街に発展した。
- AD 1384年、フランデレン地方(今のベルギー北部)がブルゴーニュ公フィリップ大胆公の支配下に入った。
- AD 1430年、ブリュッセル(今のベルギーの首都)がブルゴーニュ公フィリップ善良公に帰属した。
- AD 1477年、ブルゴーニュ公シャルル突進公が戦死し、やがてベルギー地方がハプスブルグ皇帝家の手に渡った。
- AD 1500年、ハプスブルク皇帝家とブルゴーニュ公家の血をひく少年カールが今のベルギーの街ヘントで生まれた。やがて彼は神聖ローマ帝国皇帝カール5世となる。
- AD 16世紀後半、ジャン・カルヴァンの教えがネーデルラントに広がっていった。ローマ教皇に従うカトリックの擁護者たらんとするハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世は、ネーデルラントにおいて異端審問を強化し、多くのプロテスタント(カルヴァン派を中心とする)が処刑された。
- AD 1566年、ゴイセン貴族たちがブリュッセルの宮廷でネーデルラントの総督となっていたパルマ公妃マルガレーテに異端審問の廃止を要求した。同じ年、アントワープにおいてもカルヴァン派プロテスタントが蜂起し、ノートルダム大聖堂などが略奪されて聖像(偶像)などが破壊された。
- AD 1568年、ブリュッセルのグラン・プラスでカルヴァン派貴族たちが処刑された。その他にも多くのカルヴァン派を中心とするプロテスタントが各地で処刑されている。
- AD 1576年、ハプスブルク家のネーデルラント総督が亡くなり、治安が悪化した。スペイン軍がアントワープで暴動を起こした。
- AD 1577年、カルヴァン派の指導者であるオラニエ公ウィレムあるいはオレンジ公ウィリアム(後にイギリスの名誉革命の際に王となったウィリアム3世の曽祖父にあたる)がブリュッセルに入城した。
- AD 1579年、ハプスブルク家のネーデルラント総督の主導の許にネーデルラント南部地域がアラス同盟を締結した。この同盟はカトリックとハプスブルク家に従うことを主軸としていた。
対するオラニエ公ウィレムは、ネーデルラント北部 7州を中心にカルヴァン派プロテスタントを中心とするユトレヒト同盟を結成した。このユトレヒト同盟にはアントワープ(今のベルギー第2の都市)も加わっていた。
このユトレヒト同盟が今のカルヴァン派プロテスタントを主体とするオランダを生み出し、他方のアラス同盟はやがてカトリックが多数派を占める今のベルギーを生み出すに至った。
- AD 1585年、北部のユトレヒト同盟に参加していたアントワープがハプスブルク家のスペイン軍に攻略された。
- AD 1609年、ハプスブルク家とネーデルラント北部のカルヴァン派プロテスタントとの間で12年間の休戦が成立した。これによりネーデルラント北部(今のオランダ)はカルヴァン派プロテスタントの支配地域、南部(今のベルギー)はハプスブルク家支配化のカトリック地域となり、アントワープやブリュッセルなどのプロテスタントの多くが北部に移り住んだ。
残るネーデルラント南部ではカトリックによる反宗教改革が活発になり、ローマ教皇の大使が派遣され、神学校が設立され、イエズス会が派遣した多くの会士が活動を展開していった。
- AD 1610年、アントワープのノートルダム大聖堂でバロックの画家ルーベンスが「キリスト昇架」を描き始めた。
- AD 1619年、ブリュッセル名物の小便小僧が完成した。
- AD 1648年、三十年戦争を終結させたウェストファリア条約において、ネーデルラント北部のオランダの独立が正式に認められた。
- AD 1695年、アウクスブルク同盟戦争を惹き起こしたフランス王ルイ14世太陽王の軍がブリュッセルを砲撃し、グラン・プラス付近の建物の多くが破壊された。
- AD 1745年、オーストリア継承戦争でプロイセン王国の側に立って参戦したフランス軍がネーデルラント南部(ベルギー)を占領した。
- AD 1748年、アーヘンの和約により、ネーデルラント南部(ベルギー)がハプスブルク家に返還された。
- AD 1789年、フランス革命勃発。
- AD 1790年、ネーデルラント南部諸州がベルギー合衆国として独立を宣言した。しかし、その年の内にハプスブルク家の軍がベルギーを攻略した。
- AD 1792年、フランス軍がベルギーを占領した。
- AD 1793年、オーストリア軍がベルギーを占領した。
- AD 1794年、フランス軍が再びベルギーを占領した。
- AD 1797年、カンポ・フォルミオ条約により、ベルギーがフランスに併合された。
- AD 1815年、フランス皇帝ナポレオンの没落後、パリ条約によりベルギーはオランダに帰属した。
- AD 1830年、フランス七月革命の影響を受け、オランダの支配に対するベルギーの反乱が起こり、独立を宣言した。その反乱のきっかけは、スペインの支配に対するナポリの人々の反乱を描いたオペラの上演だった。
- AD 1831年、ドイツのザクセン・コーブルク家のレオポルド1世が、初代ベルギー国王となった。その年、フランス軍の支援もあり、オランダ軍が籠城していたアントワープが陥落した。
- AD 1839年、ロンドン条約により、オランダがベルギーの独立を認めた。但し、ベルギーが永世中立国となることが条件とされた。カトリックが多数派であり、ワロン語(フラマン語)が優勢のベルギーがフランスと一体となってオランダを脅かすことを防ぐためだった。
- AD 1872年、ベルギーを舞台とする物語「フランダースの犬」がイギリスで発表された。
- AD 1885年頃、フランスの首都パリに向かう前の画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホがアントワープでルーベンスの絵を研究していた。
- AD 1898年、ワロン語(フランス語)に加えてフラマン語(オランダ語)が国の公式言語として認められた。
- AD 1908年、ベルギー国王が所有していた植民地コンゴがベルギーの支配下に移された。
- AD 1914年、第一次世界大戦の勃発により、ドイツが永世中立国ベルギーを占領した。
- AD 1919年、ヴェルサイユ条約により、ベルギーの永世中立義務が廃止された。その年に行われた総選挙で、フラマン語(オランダ語)地域の独立を目指す政党の議員が当選した。
- AD 1940年、ドイツがベルギーを占領した。
- AD 1944年、ベルギーが連合国軍によって解放された。
- AD 1960年、ベルギーが植民地コンゴ(今のザイール)の独立を承認した。
- AD 1949年、北大西洋条約機構 NATOが成立し、ベルギーも参加した。
- AD 1993年、フラマン語(オランダ語)とワロン語(フランス語)の区分による連邦制を導入した。
|
|
|
|
|
ヨーロッパの歴史風景
このサイト「ヨーロッパ三昧」には、下の姉妹サイトもあります。ヨーロッパに興味のある方は寄り道してくださいね。
|
このサイト「ヨーロッパ三昧」の姉妹サイト「ヨーロッパの歴史風景」。ヨーロッパ各国の歴史に重点を置いてある。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
Copyright (c) 2000 - 2013 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。
このサイトの運営は、あちこち三昧株式会社が行います。
|