朝の散歩でパリのノートルダム大聖堂そしてパリでの最後の日が来てしまった。「パリに住んだ ・・・ つもりの9日間」も今日で終わり。そして、7年3ヶ月にわたったイギリスの首都ロンドンでの暮らしも今月末で終わる。もうすぐヨーロッパともお別れなんだ。長い長い祭りの後 ・・・ そんな気分だな。それはともかく、パリの最後の朝、地下鉄を乗り継ぎ、パリの中心ともいうべきシテ島へと向かう。最後にパリのノートルダム大聖堂を見ておこうというわけだ。
そして朝のノートルダム大聖堂の正面ファサードが上の画像。原則としてヨーロッパのキリスト教の大聖堂などの正面は西を向いているから、朝のうちに正面から撮影すると逆光になっちゃうんだよね。でも、後光がさしているみたいで良いかも。
ついでながら、上の画像にあるように、ノートルダム大聖堂の西側正面ファサードにはバラ窓があるよね。このゴシック建築に特徴的なバラ窓やそのステンド・グラスは、フランスのゴシック様式の聖堂建築の先駆とされるパリ郊外のサン・ドニ大聖堂の影響なんだそうな。
パリのノートルダム大聖堂の歴史パリ司教モーリス・ド・シュリーによって、今のパリのノートルダム大聖堂の建設工事が始まったのは西暦1163年のこと。そして西暦1182年には主祭壇あたりの聖別が行われたらしい。主祭壇や聖歌隊席あたりが完成すれば、大聖堂での儀式を行うことができるんだそうな。
とはいえ、ノートルダム大聖堂の完成はまだまだ遠いこと。工事を始めたパリ司教モーリス・ド・シュリーは西暦1196年に亡くなったけれども、ノートルダム大聖堂の工事はまだまだ続いた。
パリのノートルダム大聖堂と宗教戦争・革命ところが、パリのノートルダム大聖堂は歴史の中で何度も戦禍を蒙っている。例えば、16世紀のフランスではカトリック(ローマの教皇に従う)とユグノー(ジャン・カルヴァンの思想に従うプロテスタント)との間の宗教戦争が続いたんだけど、西暦1548年にはプロテスタントによってパリのノートルダム大聖堂が損傷を受けたらしい。そして西暦1789年のフランス革命の後、フランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑された西暦1793年にはノートルダム大聖堂も閉鎖され、多くの財宝なども破壊され、破壊されたんだそうな。
フランス王家の墓所のあるパリ郊外のサン・ドニ大聖堂も荒らされ、歴代のフランス王たちの墓標も破壊されたけれども、このパリのノートルダム大聖堂の聖書の王たちの像の首も刎ねられて捨てられたらしい。そして、このノートルダム大聖堂は食糧貯蔵庫として使われたんだそうな。そんな大聖堂が修復されたのは、19世紀のことだった。
パリのノートルダム大聖堂とフランスの歴史そんなこんなでフランスの歴史とパリのノートルダム大聖堂は深いつながりがあるんだけど、この大聖堂には他にもフランスの歴史に関する事柄が多いんだ。例えばノートルダム大聖堂の中には、右の画像にあるジャンヌ・ダルクの像がある。西暦1431年、フランスを救ったジャンヌ・ダルクを異端の罪で処刑したのはイングランド軍だった。 その同じ西暦1431年、フランスの首都パリを占領していたイングランドの王ヘンリー6世はこのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠している。(後にイングランド王ヘンリー6世はテムズ川のほとりにあるロンドン塔に幽閉されて亡くなったけど。) 他方で西暦1455年、ジャンヌ・ダルクの母親は、処刑された娘の異端の罪を破棄するようにローマ教皇の使者に嘆願したらしい。(そのジャンヌ・ダルクは西暦1920年にローマ教皇庁から聖人とされた。) 時は流れて西暦1558年には、スコットランド女王メアリー・スチュアートがパリのノートルダム大聖堂でフランス王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチの息子のフランソワ(後のフランス王フランソワ2世)と結婚している。 西暦1572年にはブルボン家のアンリ(後のフランス王アンリ4世)がここで王女マルグリット(あるいはマルゴー)と結婚している。(その直後にサン・バルテルミーの虐殺が起こった。) 西暦1804年にナポレオンがフランス皇帝の戴冠を受けたのは、このパリのノートルダム大聖堂においてだった。 西暦1944年、長くナチス・ドイツの占領下にあったフランスの首都パリが解放され、このノートルダム大聖堂で喜びのミサが執り行われた。
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