東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

春のイングランド南部の旅(イギリス)

14. 征服王ウィリアム1世が上陸したペヴェンシー

ペヴェンシーで昼食

今朝、イギリス南海岸のリゾート地 ブライトンを出発し、東に向かって車を走らせ、ビーチー・ヘッドでホワイト・クリフ(白い崖)を眺め、次は北東に走って到着したのが、イースト・サセックスの海辺にあるペヴェンシーの村だった。人口は約 3千人なんだそうな。

ちょうどお昼だし、村の小さなレストラン(あえて食堂と表現すべきかも)に入る。教会で日曜日のミサを終えてお昼を食べに来たと思われる人々が食事をしていた。彼らが私たちの姿を見て動きを停めた。それまで賑やかだった店内がいきなり静かになった。ロンドンのような大都会やカンタベリーのような観光地はともかく、こんな何も無さそうな海辺の小さな村では、まだ日本人は珍しいのかも。

先に店に入った家内が、とまどいながらも誰に言うともなく「ハロー」。それがマジック・ワードだった。一瞬で凍りついた時間が再び融けて流れ始め、何人かのお年寄りが挨拶を返してくれた。さて、テーブルに落ち着き、私たちもお昼を食べよう。

ペヴェンシーの古城跡

お昼を食べたら、次はペヴェンシーの村はずれにある古城跡を歩く。下の画像がその古城跡なんだ。

征服王ウィリアム1世の上陸地点近くにあるペヴェンシーの古城(イングランド、イギリス)

イギリスではさほど珍しくもない古城跡 ・・・ かもしれない。築かれては廃棄されたペヴェンシーの古城。でも、このお城はとっても長い歴史を持っているんだそうな。

ペヴェンシーの古城と古代ローマ帝国
そしてケルト系ブリトン人とアングロ・サクソン人

古代ローマ帝国のカエサル(シーザー)が紀元前55年にブリテン島(イギリス)に遠征したことは別として、古代ローマ帝国がブリテン島(イギリス)に軍団を駐屯させたのは西暦43年のことだった。でも、その頃には、このペヴェンシーに城砦を築く必要も無かったんだそうな。

ところが、西暦340年頃には古代ローマ帝国の軍団がこのペヴェンシーに城を築いたらしい。というのも、英仏海峡を越えてサクソン人が襲ってくるようになったから。そんなサクソン人の襲撃を防ぐ為の城砦の中では、このペヴェンシーの城は最大規模のものだったそうな。

しかし、イタリアのローマでさえも危機に瀕していた古代ローマ帝国は、西暦410年にはブリテン島(イギリス)に駐屯していた軍団すべてを引き揚げてしまった。ブリテン島南部ではアングロ・サクソン人に手を焼き、北部ではピクト人の攻勢に苦しんでいたということもあるんだろうね。

征服王ウィリアム1世の上陸地点近くにあるペヴェンシーの古城(イングランド、イギリス)

それ以後、ペヴェンシーの城はケルト系ブリトン人が使っていたらしい。ところが、ブリテン島(イギリス)には多くのアングロ・サクソン人が渡来してきた。そして西暦491年、サウス・サクソン人(サセックス人)がペヴェンシーを攻略し、城に入っていたケルト系ブリトン人を皆殺しにしたんだそうな。ここをペヴェンシーと名づけたのは、彼らサセックス人だった。

但し、ケルト系ブリトン人が一方的にアングロ・サクソン人に虐殺されっぱなしだったわけでもない。アーサー王伝説はともかくとしても、ケルト人はウェールズには独自の小王国をいくつも築いて生き延びていた。その中のグウィネズ王国はアングロ・サクソンのマーシア王国と同盟し、ノーサンブリア王国のエドウィン王を戦死させ、ヨークを略奪したりもしている。

更には、ノルマン・コンクエストの後まで存続したグウィネズ王国はイングランド王ヘンリー1世と和平合意を結んだりもしたんだ。でも、結局はイングランド王エドワード1世に征服されちゃったんだけどね。

ノルマンディー公ウィリアム(征服王ウィリアム1世)の上陸

このペヴェンシーの村には、下の画像のような海岸がある。この海岸に西暦1066年09月28日に上陸したのが、ノルマンディー公ウィリアム(イングランドの征服王ウィリアム1世)だった。(カエサルやヴァイキングが上陸したディール海岸と並んで、このペヴェンシーの海辺は、ブリテン島への侵略者には都合の良い入り口だったんだろうね。)

イングランド南岸にあるペヴェンシー海岸は征服王ウィリアム1世の上陸地点(イギリス)

ノルマンディー公ウィリアムと兵士たちはここから東へ向かい、半月後の10月14日にはヘイスティングスの戦いでハロルドを打ち破り、間もなくウィリアムはイングランド王(征服王)ウィリアム1世として戴冠するわけだ。(イングランド王の戴冠は、最後のアングロ・サクソン系イングランド王のエドワード懺悔王が建てたウェストミンスター寺院で行っている。)

その後の征服王ウィリアム1世やノルマン貴族たち

イングランドの王位を得た征服王ウィリアム1世は、イングランド支配の拠点としてホワイト・タワー(ロンドン塔の中心にある)などを築いて体制を固めている。

他方で、彼の臣下のノルマン貴族たちも、カンタベリー近くのチラムの城を築いたり、荒れていたペヴェンシーの古城を修復したり、イングランド各地の領主となって支配を確立していったんだそうな。

というわけで、イースターの連休を利用した私たちのイングランド南部の旅もこれで終わりだ。ここからイギリス南海岸を東へと向かい、やがて北上してロンドンの自宅へ戻る。明日は一日休養して、明後日からはオフィスで仕事だな。

イングランド南部の旅(イギリス)


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