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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」
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イタリア半島を南北に結ぶエミリア街道に位置するボローニャは、古来より交通の要衝だったんだそうな。そして、この街は今でも交通の要衝なんだ。ボローニャから南のフィレンツェまでは鉄道で 1時間、北のヴェネツィアやミラノへも 2-3時間で行くことが出来る。
そんな交通の要衝であるボローニャを、多くの歴史上の人物が往来している。
歴史の主役達が通り過ぎていったボローニャ。決して歴史の主役を生み出すことは無かったけれども、歴史の舞台を提供してきた街なのかな。
ボローニャ 略年表
- 紀元前 6世紀、現在のボローニャは古代エトルリア人支配下にあったポー川流域の首都であり、フェルシナと呼ばれていた。
- 古代ローマ帝国時代には、エミリア街道の要衝の街ボノーニアとして栄えた。その「ボノーニア」という名前は、ケルト系の「ボナ bona」から変化したものらしい。「ボナ」は城砦を意味する言葉なんだそうな。つまりはケルト系の城砦を流用・強化した古代ローマ帝国の軍隊の駐屯地だったと考えられているんだそうな。
- 6 - 8 世紀、ビザンティン帝国、ランゴバルド族、フランク族に支配された。
- 11世紀、自治都市となった。また、現在はサン・ステファノ教会群と総称されている三つの教会のうちで最古の聖十字架教会の建設が始まった。
- 1088年、ボローニャ大学創立。(やがてこの大学では、ダンテ、トマス・ベケット、コペルニクス、教皇アレクサンデル6世、対立教皇ヨハネス23世などが学ぶことになる。)
- 12世紀、ボローニャがロンバルディア同盟に参加し、神聖ローマ帝国軍と戦った。
- 1200年、ボローニャでマッジョーレ広場の建設が始まった。
- 1249年、神聖ローマ帝国軍を破り、皇帝フリードリヒ2世の息子を捕虜にした。
- 1390年、ドゥオモ(サン・ペトローニオ聖堂)の建設が始まった。しかし、未だに完成していない。
- 15世紀初頭、ベンティヴォーリオ家がボローニャの実権を握った。
- 1475年、ジロラーモ・サヴォナローラがボローニャのサン・ドメニコ修道院で修練士となった。後に彼はフィレンツェを支配し、やがてはローマ教皇アレクサンデル6世(チェーザレ・ボルジアの父)と対立してシニョーリア広場で処刑された。
- 1494年、フィレンツェで反メディチ暴動が起こり、ピエロ・デ・メディチ(「不運のピエロ」)を当主とするメディチ家の人々はボローニャ経由でヴェネツィアへ逃れた。
- 1502年、ボローニャのベンティヴォーリオ家がチェーザレ・ボルジアと講和を結んだ。ベンティヴォーリオはチェーザレと傭兵契約を結び、チェーザレに年給 12,000 ドゥカートを支払うことを約した。実質的には屈伏である。
- 教皇ユリウス2世が軍と共にボローニャに入城。教皇に抵抗していたベンティヴォーリオは逃走した。(この教皇ユリウス2世はローマに新しいサン・ピエトロ大聖堂の建設を始め、ラファエロにヴァティカンでの制作を始めさせた人物だった。)
- 1515年、メディチ家出身の教皇レオ10世がフランス王フランソワ1世との会見の為にボローニャに到着した。
- 1529年、メディチ家出身の教皇クレメンス7世とハプスブルク家の皇帝カール5世がボローニャに到着。和解のための交渉に臨んだ。
- 1530年、教皇クレメンス7世の手により、皇帝カール5世のための戴冠式が行われた。
- 1531年、後に「イタリア史」を著し、近代歴史学の父とも称されたグイッチャルディーニがローマ教皇の命によりボローニャを統治した。
- 1537年、フィレンツェ大公アレッサンドロを刺殺したロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチがボローニャ経由でヴェネツィアに逃走。この事件がメディチ家弟脈の出身で黒備えのジョヴァンニの息子コシモ1世のフィレンツェ大公即位への道を開いた。
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