東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
エミリア・ロマーニャ と トスカナ (イタリア)
1999 年 6 月
イタリア半島を南北に結ぶエミリア街道に位置するボローニャは、古来より交通の要衝だった。
この街は現代においても交通の要衝である。ボローニャから南のフィレンツェまでは鉄道で 1時間、北のヴェネツィアやミラノへも 2-3時間で行くことが出来る。
そんな交通の要衝であるボローニャを、多くの歴史上の人物が往来している。
- 1494年11月、大ロレンツォの長男にして当時のメディチ家の当主である「不運のピエロ」氏が、フィレンツェに於ける反メディチ暴動を逃れて、ボローニャにやって来た。
余談ながら、後にフランス軍と行動を共にしていた不運のピエロ氏は、ナポリ近くの戦闘の際に溺死してしまった。1503年のことである。
- 1512年夏、不運のピエロの弟であるジョヴァンニ枢機卿(後の法王レオ10世)がスペイン軍部隊と共にボローニャを攻略。
右の画像は、ラファエロの描いた法王レオ10世。
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- 1515年、法王レオ10世(上に書いたジョヴァンニ枢機卿)がボローニャにおいてフランス王フランソワ1世と会見した。
- 1529年11月、レオ10世の従弟にあたる法王クレメンス7世がボローニャにおいて皇帝カール5世と会見。
1527年には皇帝軍によるローマの劫略があったが、1529年6月には法王クレメンス7世と皇帝カール5世との間でバルセロナ条約が結ばれ、両者の和解が成立していた。
右の画像は、ラファエロの描いた法王クレメンス 7世。
法王クレメンス 7世について詳しくはココをクリック。
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- 1530年2月22日、法王クレメンス7世により皇帝カール5世の戴冠式がボローニャで挙行された。
皇帝の支援を得たメディチ家は、反メディチ派が支配するフィレンツェを攻撃し、1530年8月に攻略に成功している。
歴史の主役達が通り過ぎていったボローニャ。決して歴史の主役を生み出すことは無かったけれども、歴史の舞台を提供してきた街である。
- 紀元前 6世紀、古代エトルリア人支配下にあったポー川流域の首都であり、フェルシナと呼ばれていた。
- 古代ローマ時代には、エミリア街道の要衝の街ボノーニアとして栄えた。
- 6 - 8 世紀、ビザンティン帝国、ランゴバルド族、フランク族に支配された。
- 11世紀、自治都市となった。
また、現在はサン・ステファノ教会群と総称されている三つの教会のうちで最古の聖十字架教会の建設が始まった。
- 1088年、ボローニャ大学創立。
- 12世紀、ロンバルディア同盟に参加し、神聖ローマ帝国軍と戦った。
- 1200年、マッジョーレ広場の建設が始まった。
- 1249年、神聖ローマ帝国軍を破り、皇帝フリードリヒ2世の息子を捕虜にした。
- 1390年、ドゥオモ(サン・ペトローニオ大聖堂)の建設が始まった。しかし、未だに完成していない。
- 15世紀初頭、ベンティヴォーリオ家がボローニャの実権を握った。
- 1475年、ジロラーモ・サヴォナローラがボローニャのサン・ドメニコ修道院で修練士となった。後に彼はフィレンツェを支配し、やがてはシニョーリア広場で処刑された。
- 1494年、フィレンツェで反メディチ暴動が起こり、ピエロ・デ・メディチ(「不運のピエロ」)たちはボローニャ経由でヴェネツィアへ逃れた。
- 1502年、ボローニャのベンティヴォーリオ家がチェーザレ・ボルジアと講和を結んだ。ベンティヴォーリオはチェーザレと傭兵契約を結び、チェーザレに年給 12,000 ドゥカートを支払うことを約した。実質的には屈伏である。
- 法王ジュリオ2世が軍と共にボローニャに入城。法王に抵抗していたベンティヴォーリオは逃走した。
- 1515年、法王レオ10世がフランス王フランソワ1世との会見の為にボローニャに到着。
- 1529年、法王クレメンス7世と皇帝カール5世がボローニャに到着。和解のための交渉に臨んだ。
- 1530年、法王クレメンス7世の手により、皇帝カール5世のための戴冠式が行われた。
- 1537年、フィレンツェ大公アレッサンドロを刺殺したロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチがボローニャ経由でヴェネツィアに逃走。この事件がコシモ1世の大公即位への道を開いた。
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