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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」
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- AD 527年、ユスティニアヌス1世(大帝)が東ローマ帝国の皇帝となった。(後にアヤ・ソフィア大聖堂を再建した人物。)
- AD 530年、東ゴート族の支配下にあったハンガリー西部にゲピート族が侵攻。将軍ウィティギスがゲピート族を駆逐し、その勢いを以て東ローマ帝国領に侵入。
- AD 534年、再び東ローマ帝国に敵対していたヴァンダル王国が、ユスティニアヌス帝の将軍ベリサリウスによって滅ぼされた。
同年、東ゴート族の大王とも称されたテオドリックの後継者として王位についていた若いアタラリックが死去。東ローマ皇帝ユスティニアヌスの同意の許に、テオドリックの娘アマラスウィンタとテオドリックの甥であるテオダハドが共同統治者となった。
しかし、同年末、テオドリックに毛嫌いされていたテオダハドがクーデターを起こし、アマラスウィンタは幽閉の身となった。
- AD 535年、テオドリックの娘アマラスウィンタが暗殺された。その暗殺は、アマラスウィンタ支持者の多かったイタリアのローマ人を反発させた。また、アマラスウィンタの保護者を自任していた東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスに開戦の口実を与え、将軍ベリサリウスがシチリアに上陸した。
- AD 536年、東ゴート軍がダルマチア方面で東ローマ帝国軍を破った。他方、シチリアに上陸していた将軍ベリサリウスは、旧ヴァンダルに駐留していた軍の反乱に対処するためにイタリアを離れていた。
東ローマ帝国に講和を求めていたテオダハド王は再び態度を硬化させた。しかし、東ローマ帝国の再攻勢により、状況は再び悪化。
東ゴート軍はテオダハドに退位を求め、ラヴェンナへの逃走を試みたテオダハドは暗殺された。東ゴートの王位を継承したのは、王家の出身ではないが軍の英雄とされていたウィティギスだった。
- AD 537年、新しい東ゴート王国の王ウィティギスは既にベリサリウスの手に落ちていたローマの奪回を試みた。しかし、ローマを攻略することは出来なかった。
- AD 538年、将軍ベリサリウス率いる東ローマ帝国軍の反撃を受け、ウィティギス率いる東ゴート王国軍はラヴェンナに撤退。
- AD 539年、東ローマ帝国軍と東ゴート王国軍との間で、北イタリア諸都市の争奪戦が繰り広げられた。同年末、将軍ベリサリウス率いる東ローマ帝国軍がラヴェンナを攻囲。
- AD 540年、ラヴェンナが開城した。東ゴート族の王ウィティギスは、ベリサリウスによって拘束された。しかし、イタリア北部で抵抗を続けていた東ゴート族の将軍達は降伏を拒み、西ゴート王の甥に当たるヒルデバドを新王に選出した。
- AD 541年、暗殺された東ゴート王国の王ヒルデバドの後を継いだのは、トティラだった。
- AD 542年、東ゴート王国の新しい王トティラはファエンツァに於いて、倍の兵力を持っていた東ローマ帝国軍に大勝した。更にフィレンツェ付近に於いても東ローマ帝国軍を壊滅させた。いくつかの勝利を手にしたトティラ軍は、イタリア南部に向かった。
- AD 543年、トティラ王の率いる東ゴート王国軍がナポリに入城した。
- AD 544年、イタリアを離れていた東ローマ帝国の将軍ベリサリウスがラヴェンナに上陸。戦線の建て直しを始めた。
- AD 546年、優勢に戦いを続ける東ゴート族の王トティラがローマに入城した。
- AD 547年、帝国軍の建て直しを行っていた将軍ベリサリウスがローマを奪回した。東ゴート王トティラはラヴェンナ攻略を目指しており、主力部隊はローマを留守にしていた。
- AD 548年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の妃テオドラが亡くなり、支援者を失った将軍ベリサリウスはコンスタンティノープルに召喚された。
- AD 549年、東ゴート族の王トティラの海軍が東ローマ帝国海軍を打ち破り、アドリア海沿岸を荒らした。
- AD 550年、攻勢に出た東ゴート族の王トティラが再びローマを占領した。その頃、ヨルダネスというアリウス派の僧侶がゴートの歴史を書き残した。
- AD 551年、新しい東ローマ帝国軍司令官ナルセスがコンスタンティノープルを出発。他方、東ゴート族の軍がコルシカとサルディニアを占領した。
- AD 552年、東ローマ帝国軍の新司令官ナルセスは、陸路にてイタリアに入り、ラヴェンナに入城した。
その年の夏、ローマに向かうフラミニア街道沿いのブスタ・ガロルムに於いて、東ゴート王国軍と東ローマ帝国軍とが激突した。宦官出身で72歳の老将ナルセスの弓兵部隊が、突撃する東ゴート族の騎兵部隊を打ち破った。
この戦いにおいて、東ゴート王国の希望の星であったトティラ王は戦死。ブスタ・ガロルムの戦いを生き延びたテヤが、東ゴートの新王に選ばれた。
新王テヤは、東ゴート王国の海軍基地のあったナポリに移動。追って来たナルセス軍とヴェスヴィオス火山(ポンペイを埋没させた火山)の近くで対峙した。
東ゴート海軍司令官の裏切りにより、補給の途絶えた東ゴート王国軍はサレルノ近くの山中にこもった。しかし、ナルセス軍との戦いにおいてテヤ王は戦死。
東ゴートは新しい王を選出することさえも出来なかった。それでも、いくつかの都市は抵抗を続けた。
- AD 555年、南イタリアのコムプサの街が、東ローマ帝国軍に降伏。ようやく東ゴート族と東ローマ帝国の戦いが終結した。
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