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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」
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- 西暦 568年、ランゴバルド族がイタリアに於いてランゴバルド王国を建国した。
- 8世紀、ランゴバルド族を撃ち破ったフランク王国の小ピピン(3世)がラヴェンナを含む地域を教皇に寄進。これが後の教皇領の基礎となった。
- 13世紀、ラヴェンナに於いてゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の対立が激化した。
- 14世紀、ダ・ポレンタ家がラヴェンナにおいて支配を確立した。
- 1318年、フィレンツェを追放されたダンテ・アリギエリが、グイード・ノヴェッロ・ダ・ポレンタの許に身を寄せた。
- 1321年、ダンテがラヴェンナにて死去。(ラヴェンナにはダンテの墓が残っている。)
- 1441年、ラヴェンナはヴェネツィアの支配下に入った。
- 1509年、ラヴェンナが教皇領に復帰した。
- 1512年、フランス王ルイ12世がラヴェンナを占領。やがて、教皇ユリウス2世によって結成された神聖同盟軍とフランス軍とが、ラヴェンナ近くで激戦を展開。この時のフランス軍の指揮官は、フランスの名将ガストン・ド・フォアだった。また、この会戦は、史上初の砲撃戦だったと言われる。
この戦いを制したのはフランス軍だったが、甚大な損害を被り、また補給に事欠いたフランス軍はボローニャに向かって撤退。ラヴェンナは再び教皇領に復帰した。他方で敗れたフランス王ルイ12世はミラノ放棄を余儀なくされた。
- 1519年、フィレンツェのメディチ家出身の教皇レオ10世がダンテ・アリギエリの遺骨のフィレンツェへの返還をラヴェンナに命じた。しかし、ラヴェンナの人々は遺骨を隠して拒否した。
- 1815年、フランス皇帝ナポレオンに占領されていたラヴェンナが教皇領に復帰することが、ウィーン会議で確認された。
- 1861年、ラヴェンナはヴィットリオ・エマヌエーレ2世を初代国王とする統一イタリア王国に併合された。
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