東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
エミリア・ロマーニャ と トスカナ (イタリア)
1999 年 6 月
- 古代ローマの支配が及ぶ前のラヴェンナには、エトルリア人、ウンブリア人、テッサロニケ人などが住んでいた。
ラヴェンナ周辺からは紀元前6世紀頃のエトルリアの遺品が多く発見されている。
- 紀元前 2世紀、古代ローマの将軍マリウスが、ラヴェンナの海軍力を強化した。
- 初代ローマ帝国皇帝となったアウグストゥス(在位 BC27 - AD 14年)は、ラヴェンナの軍港を整備・拡張し、他方でローマ帝国海軍ののアドリア艦隊を増強した。
- 2世紀、古代ローマのトラヤヌス帝がラヴェンナに水道橋を建設した。
- 西暦 402年、西ローマ帝国皇帝ホノリウスは、ゲルマンの脅威にさらされるミラノからラヴェンナに帝国の都を移した。
- 西暦 476年、西ローマ帝国が滅亡。ゲルマン系といわれるオドアケルがイタリアの王と称した。
- 西暦 493年、東ゴート族のテオドリック(在位 AD 473 - 526年)は、3年間に渡るラヴェンナ攻囲の末にオドアケルを降伏させ、イタリアの支配者となった。やがてオドアケルは、反逆者として処刑された。
- 西暦 540年、東ローマ皇帝ユスティニアヌスの腹心の将軍ベルサリウスがラヴェンナを占領した。
- 西暦 547年、アリウス派の教会として建てられたサン・ヴィターレ教会が初代大司教マクシミアヌスによりカトリックの為に聖別された。
- 西暦 549年、サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会が、大司教マクシミアヌスの手によりカトリックの為に聖別された。
右の画像は、美しいモザイク画が残るサンタポリナーレ・イン・クラッセ教会(ラヴェンナ)。
サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会について詳しくはココをクリック。
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- 西暦 554年、東ローマ帝国の総督府がラヴェンナに置かれた。
- 西暦 568年、ランゴバルド族がイタリアに於いてランゴバルド王国を建国。
- 8世紀、ランゴバルド族を撃ち破ったフランク王国のピピンがラヴェンナを含む地域を法王に寄進。これが後の法王領の基礎となった。
- 13世紀、ラヴェンナに於いてゲルフ(法王派)とギベリン(皇帝派)の対立が激化した。
- 14世紀、ダ・ポレンタ家がラヴェンナにおいて支配を確立した。
- 1317年、フィレンツェを追放されたダンテ・アリギエリが、グイード・ノヴェッロ・ポレンタの許に身を寄せた。
- 1321年、ダンテがラヴェンナにて死去。
右の画像は、ラヴェンナにあるダンテの墓。
ダンテと彼の墓について詳しくはココをクリック。
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- 1441年、ラヴェンナはヴェネツィアの支配下に入った。
- 1509年、ラヴェンナが法王領に復帰した。
- 1512年、フランス王ルイ12世がラヴェンナを占領。やがて、法王ジュリオ2世によって結成された神聖同盟軍とフランス軍とが、ラヴェンナ近くで激戦を展開。この時のフランス軍の指揮官は、フランスの名将ガストン・ド・フォアだった。また、この会戦は、史上初の砲撃戦だったと言われる。
この戦いを制したのはフランス軍だったが、甚大な損害を被り、また補給に事欠いたフランス軍はボローニャに向かって撤退。ラヴェンナは再び法王領に復帰した。
- 1519年、法王レオ10世がダンテ・アリギエリの遺骨のフィレンツェへの返還をラヴェンナに命じた。しかし、ラヴェンナの人々は遺骨を隠して拒否した。
- 1815年、ナポレオンに占領されていたラヴェンナが法王領に復帰することが、ウィーン会議で確認された。
- 1860年、ラヴェンナは統一イタリア王国に併合された。
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