東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
エミリア・ロマーニャ と トスカナ (イタリア)
1999 年 6 月
- 1458年、フィレンツェの銀行家ルーカ・ピッティが、アルノ川の南岸にあるボボリの丘に宮殿を建てることを計画した。
彼の依頼により、フィリッポ・ブルネレスキがピッティ宮殿を設計した。
しかし、実際に建設工事を指揮したのは、ルーカ・ファンチェッリだった。
右の画像は、現在のピッティ宮殿。
ピッティ宮殿とパラティナ美術館について詳しくはココをクリック。
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- 1478年、パッツィ家の陰謀。メディチ家の当主である大ロレンツォとその弟の殺害を企てた陰謀に荷担していたルカ・ピッティが失脚した。
- 1549年、トスカナ大公コシモ1世の夫人エレオノーラ・デ・トレドがピッティ宮殿を買い取った。
未完成だったピッティ宮殿を完成すべく起用されたのは、バルトロメオ・アンマンナーティだった。
- 1560年、まだ工事の続いているピッティ宮殿にトスカナ大公一家が移った。
エレオノーラ大公妃は、宮殿の裏にあるボボリ庭園を散歩するのが大好きだった。
- 1620年、トスカナ大公コシモ2世の命により、ジュリオ・パリージが改装工事を担当した。
- 1737年10月31日、第7代トスカナ大公ジャン・ガストーネが死去。彼はメディチ家最後のトスカナ大公だった。
ジャン・ガストーネの死に伴ってトスカナ大公位を継承したハプスブルク・ロレーヌ家の大公がピッティ宮殿に移り住んできた。
- 1743年2月、ピッティ宮殿の一角に住んでいたアンナ・マリーア・ルイーズ・デ・メディチが死去。その死を以て、メディチ家の歴史は幕を下ろした。
右の画像は、ラファエロの「大公の聖母」。
この作品は、19世紀の初頭にハプスブルク・ロレーヌ家のトスカナ大公フェルディナンド3世によって購入されたもの。現在は、ピッティ宮殿内のパラティナ美術館に展示されている。パラティナ美術館について詳しくはココをクリック。
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- 1828年、ハプスブルク・ロレーヌ家のトスカナ大公レオポルト2世により、ピッティ宮殿の一角にあったパラティナ美術館が一般公開された。
そこで公開された多くの作品の殆んどはメディチ家によって収集されたものだった。
- 1865-1871年、フィレンツェが統一イタリア王国の首都だった時代には、このピッティ宮殿は国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の王宮として使われた。
- 1915年、イタリア王家がピッティ宮殿を国家に寄贈。
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