東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「カンパーニャとローマ・ヴァティカン」(イタリア)

第四部 ローマ・ヴァティカン編

D58. その後のボルゲーゼ美術館

その後のボルゲーゼ美術館

シピオーネ・ボルゲーゼを枢機卿に引き上げた叔父のローマ教皇パウルス5世は西暦1612年に亡くなった。そして西暦1633年、ベルニーニを芸術家として育て上げた人物の一人である枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼも亡くなってしまった。

でも、バロック美術に限らず古代からルネッサンスにかけての芸術作品を集めたボルゲーゼ家のヴィラには、その後も多くの人々が集まっていたみたい。

1636年に描かれたボルゲーゼ美術館(ローマ、イタリア) 1636年に描かれたボルゲーゼ美術館(ローマ、イタリア) 1636年に描かれたボルゲーゼ美術館(ローマ、イタリア) 1636年に描かれたボルゲーゼ美術館(ローマ、イタリア)

上の画像は枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼが亡くなって三年後の西暦1636年に J.W.バウルによって描かれたボルゲーゼ家のヴィラ(現在のボルゲーゼ美術館)の様子なんだ。

ナポレオンとボルゲーゼ美術館

でも、ナポレオンによるイタリア支配はボルゲーゼ美術館にも深刻な影響を与えたんだ。西暦1797年にローマ教皇庁とナポレオンとの間に結ばれたトレンティーノ条約により、ボルゲーゼ美術館のコレクションの中から多くの芸術品がフランスに運び去られてしまったんだ。

ボルゲーゼ美術館は更にナポレオンによって翻弄される。西暦1803年のこと、当時のボルゲーゼ家の当主マルカントニオ4世の息子カミッロが、ナポレオンの妹であるポーリーヌ(あるいはパオリーナ)と結婚させられた。その際にもボルゲーゼ家のコレクションの中から多くの芸術作品がフランスに売却させられてしまった。

こうしてボルゲーゼ美術館から流出していった芸術作品は、今でもフランスの都パリルーブル美術館に展示されているんだそうな。

アントニオ・カノーヴァ作
「パオリーナ・ボルゲーゼ」の彫像

こうして多くのものをボルゲーゼ美術館から奪い去っていったナポレオンなんだけど、間接的にではあれナポレオンがボルゲーゼ美術館に残していったものが一つだけある。

それが下の画像にある「パオリーナ・ボルゲーゼ」の彫像なんだ。パオリーナ、つまりフランス風にはポーリーヌは、上にも書いたようにボルゲーゼ家の当主の息子と結婚したナポレオンの妹だね。

ボルゲーゼ美術館に見るアントニオ・カノーヴァ作「パオリーナ・ボルゲーゼ」(ローマ、イタリア)

但し、ナポレオンは上の画像にある妹の彫像を気に食わなかったらしい。実の妹の彫像が裸身だったことが気に障ったんだそうな。

ついでながら、ナポレオンの妹の裸身の彫像を制作したのは、アントニオ・カノーヴァ。18世紀末から19世紀にかけてのイタリアを代表する古典主義的な彫刻家だね。ヴァティカン博物館・美術館ピオ・クレメンティーノ美術館八角形の中庭にも、カノーヴァ作の「ペルセウス像」が残されている。

ボルゲーゼ家の手を離れたボルゲーゼ美術館

それでも生き残ったボルゲーゼ美術館に転機が訪れたのは、西暦1902年のことだった。投機に失敗したボルゲーゼ家の財政状態が悪化したんだ。

その結果、ボルゲーゼ家はボルゲーゼ・コレクションとヴィラをイタリアの国家に売却した。そして現在、ボルゲーゼ美術館はイタリアの国家によって運営されている。


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