東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「マルタ 聖ヨハネ騎士団の島」

24. ヴィットリオーザの聖ローレンス教会(マルタ島)

ヴィットリオーザ(旧ビルグ)に到着

今朝は6時に目が覚めた。旅の4日目、短い旅の最終日だ。せめて午前中だけでも観光を楽しもう。というわけで、8時にはヴァレッタのバス・ターミナルでバスに乗り込む。やがてバスに乗り込んできたジーンズの若い男が乗客のチケットを受け取り、少し破いては返し始めた。なるほど、これがガイド・ブックで読んだ検札なんだな。

8時半にはスリー・シティーズの一角にあるヴィットリオーザ(旧ビルグ)の街に到着。一昨日もこの街に来て、聖アンジェロ城砦などを歩いたんだけど、他にも色々と訪ねたい場所がある。というわけで今日もバスに乗ってやって来たわけだ。

そんなヴィットリオーザの街の一角にあるヴィクトリー広場の様子が下の画像。西暦1565年のオスマン・トルコ軍によるマルタ攻囲(グレート・シージ)において聖ヨハネ騎士団が勝利を得たことを記念するメモリアルのある広場なんだ。

ヴィットリオーザのヴィクトリー広場から眺めた聖ローレンス教会(マルタ共和国)

そんなヴィクトリー広場のちょいと向こうに私の目指す聖ローレンス教会がある。上の画像に見えている赤いクーポラのある建物がそれなんだ。元々は西暦1508年に建立された教会だったそうな。但し、西暦1693年の大地震で破壊され、西暦1697年から再建されている。その責任者は古都イムディナ聖パウロ大聖堂を再建したロレンツォ・ガファだった。

勝利を祝って鳴り響いた聖ローレンス教会の鐘

西暦1565年9月8日、このヴィットリオーザ(旧ビルグ)の聖ローレンス教会の鐘が鳴り響いたことがあった。(下の画像は今の教会の鐘塔。)

ヴィットリオーザの聖ローレンス教会の鐘塔(マルタ共和国)

その前日の9月7日、スペインのシシリア副王の1万の兵力の援軍がマルタ島に上陸した。聖ヨハネ騎士団の騎士団長ジャン・ヴァレッテは騎士たちに策を与えた。騎士たちは「更に1万6千の援軍が上陸中だ」との情報を流す。それもイスラム教徒の奴隷たちの聞こえる場所で ・・・ 。その上でその奴隷を脱走させる。やがて騎士たちが流した情報はオスマン・トルコ軍の指揮官の耳に入るはず。

そして9月8日、長引く攻囲に加えて、キリスト教徒の援軍の到着によって戦意が低下し、しかも物資も消耗しつつあったオスマン・トルコ軍がマルタ島からの撤退を開始した。聖ヨハネ騎士団の偵察の騎士は無人となった聖エルモ城砦跡地にやって来た。オスマン・トルコ艦隊からは一時は奪い取った聖エルモ城砦に再び聖ヨハネ騎士団の八角十字の旗がはためくのが見えた。ヴィットリオーザの聖ローレンス教会で鐘が鳴り響いたのは、その時のことだった。

撤退の為に艦隊に乗船を始めていたオスマン・トルコの指揮官ムスタファ・パシャの下に上陸したキリスト教徒の援軍の兵力は1万に過ぎないとの情報が届いた。つまり、オスマン・トルコ軍が兵力において優勢を保っている。彼は再び軍をマルタ島に上陸させた。

キリスト教徒軍の兵士たちの士気は高揚していた。聖ヨハネ騎士団の指揮官は兵士たちに突撃を命じざるを得なくなった。それを見ていた古都イムディナの兵士たちもオスマン・トルコ軍に向かって突撃を始めた。シシリアからの援軍はオスマン・トルコ軍の正面からぶつかり、イムディナを出撃したキリスト教徒軍はトルコ軍の側面を突くことになった。この日、キリスト教徒軍の指揮をとったのは神だと言われた。

オスマン・トルコ軍は崩れた。その撤退を支えたのは精鋭イェニチェリ部隊だった。指揮官ムスタファ・パシャとイェニチェリは、トルコ艦隊に向かう軍の後衛を務め、時に追撃するキリスト教徒軍を迎撃し、自軍の損害を最小限にくい止めた。そんな追撃戦は水際まで続いたらしい。敗戦の報を受けたオスマン・トルコのスレイマン大帝は、人目につかないように夜間に帰還するようにと遠征軍に命じたらしい。

聖ローレンス教会の中に

よけいな話がとっても長くなってしまった。ともかく、お目当ての聖ローレンス教会の中に入ろう。ところが、一昨日に続いて今日も教会の扉は閉ざされている。困ったな。どうするかな。そこへ太った初老の女性が現れ、小さな木戸を開いて中に入ろうとする。私と目が合った彼女は私を招き入れてくれたんだ。(下の画像が後で撮影した聖ローレンス教会の内部。)

ヴィットリオーザの聖ローレンス教会の内部(マルタ共和国)

中に入ると、礼拝が行われている。まずい ・・・ と思ったけど、これも神様のお導きだよね。黙って目立たない席に座り、礼拝の様子を見守る。20人ほどの人々が神父様のお話に耳を傾ける。続いて信徒代表のお話。寄付(お布施かな)の為のカゴがまわってくる。私もコインを入れたよ。

パンを分け与え、賛美歌を歌う。再び神父様のお話。彼が何かを言った時、人々が私に向かって軽く会釈をした。何のことだかわからないけど、私も慌てて会釈を返す。やがてミサが終わり、私一人が教会に残された。上の画像を撮影したのは、その時のこと。

聖ローレンス教会で見た騎士たちの墓碑

西暦1530年に皇帝カール5世からマルタ島を与えられた聖ヨハネ騎士団は、スリー・シティーズに本拠を置いた。その中でもこのヴィットリオーザ(旧ビルグ)が中心だった。そんなわけで、この聖ローレンス教会も騎士団にとって縁の深い教会となったらしい。

ヴィットリオーザの聖ローレンス教会で見たサー・ニコラス・アプトンの墓碑(マルタ共和国)

聖ローレンス教会の中には聖ヨハネ騎士団の騎士たちの墓碑も残されている。例えば上の画像はイギリス出身のサー・ニコラス・アプトンの墓碑。彼は西暦1551年に名高い海賊ドラグート(トゥグルト・レイス)がオスマン・トルコ軍部隊を率いてマルタ島に上陸した時の戦いで戦死したらしい。

ちなみに、その海賊ドラグートは、西暦1565年のマルタ島攻囲にも参加している。でも、この聖ローレンス教会のあるヴィットリオーザの先端の聖アンジェロ城砦の大砲から撃ち込まれた砲弾の破片で傷を受け、まもなく戦死している。まさかその14年前に戦死して天国へ行ったサー・ニコラス・アプトンの仕業ではないだろうけど ・・・ 。


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