東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
エミリア・ロマーニャ と トスカナ (イタリア)
1999 年 6 月
- AD 4世紀、ダルマツィア地方の石工マリノは、リミニの港の工事の為にアドリア海を渡った。しかし、キリスト教徒だった彼は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによる迫害を逃れるためにチタン山に逃れた。
やがて彼を慕う人々がチタン山に集まり、彼らは集団生活を始めた。マリノの死後も彼らは集団生活を続け、それがサン・マリノの起源となった。
- AD 951年、ベレンゲールの文書に、サン・マリノの山上にある城砦と街が記されていた。
- AD 1126年、法王ホノリウス2世の勅書に、城壁に囲まれたサン・マリノの街が登場。
右の画像は、第一の砦グアイタの塔からみるサン・マリノの砦。
グアイタの塔について詳しくはココをクリック。
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- AD 1257年、ギベリン(皇帝派)だったサン・マリノを、法王インノチェンツォ4世が破門。
- AD 1259年、サン・マリノの破門が解かれた。
- AD 1371年、アングリコ枢機卿の残した報告書の中に、サン・マリノの山上にある三つの城砦が言及されている。
右の画像は、サン・マリノ第二の砦 ケスタの塔。
ケスタの塔について詳しくはココをクリック。
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- AD 1461年、サン・マリノは法王と同盟していた。
- AD 1463年、リミニの領主マラテスタ家のシジスモンド・バンドルフォ・マラテスタがサン・マリノを攻略しようとしたが、その軍を撃ち破ったサン・マリノが独立を維持した。
しかも、この戦いの勝利によって、マラテスタの二つの城も奪い取っている。
- AD 1503年、法王アレクサンドル 6世の庶子チェーザレ・ボルジアの支配下に入った。
しかし、法王の死と共にチェーザレ・ボルジアの勢力が弱まったことに乗じて、サン・マリノが独立を回復した。
- 1542年、ファビアノ・ダ・モンテ・サンサビノがサン・マリノに対する奇襲を試みた。しかし、濃霧の為に奇襲は失敗し、サン・マリノは独立を維持した。
- 1739年、枢機卿ジューリオ・アルベロニがサン・マリノを占領。しかし、法王クレメンス12世の介入により枢機卿は軍を撤退させ、サン・マリノは独立を回復した。
- 1815年、ウィーン会議に於いて、サン・マリノの独立が確認された。
- 1849年、イタリア統一運動の英雄ジュゼッペ・ガリバルディの部隊がオーストリア軍に追われてサン・マリノに逃げ込んできた。
しかし、ガリバルディが部隊を解散したことにより、オーストリア軍の攻撃は回避された。
- 1854年、法王ピオ9世は、先にガリバルディを保護しようとしたサン・マリノを「自由主義者の巣窟」として糾弾し、トスカナ大公に命じてサン・マリノの占領を企てた。
しかし、当時のフランス皇帝ナポレオン3世の介入により、サン・マリノは危機を脱することが出来た。
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