東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「カンパーニャとローマ・ヴァティカン」(イタリア)

第四部 ローマ・ヴァティカン編

D53. ローマにあるボルゲーゼ公園

ローマにあるボルゲーゼ公園に到着

古代ローマ帝国ゆかりのフォロ・ロマーノを歩き、コロッセオ(円形闘技場)の横でタクシーをさがす。観光客は多いんだけど、お昼時だからかタクシーは少ない。1台のタクシーが停車すると、それを3組の観光客が奪い合うほど。そんな激戦を制してタクシーに乗り込んだ。

イタリアの首都ローマのボルゲーゼ公園の松林

そのタクシーを降りたのは、上の画像にあるボルゲーゼ公園の前だった。古代ローマ帝国皇帝アウレリアヌスによって築かれたピンチアーナ門(19世紀に統一イタリア王国によるローマ併合の戦いの戦場となった場所)の近くにある公園だね。

かつてはローマ郊外のブドウ畑だったボルゲーゼ公園

今のボルゲーゼ公園は、かつてはローマ郊外のブドウ畑だったそうな。それを荘園としたのは、ボルゲーゼ出身のローマ教皇パウルス5世(カミッロ・ボルゲーゼ)だった。

ボルゲーゼ家は元々はトスカナのシエナの貴族だった。が、パウルス5世の父のマルカントニオ1世がローマ教皇庁に務め、その後の西暦1555年にメディチ家のコシモ1世統治下のフィレンツェがシエナを征服し、その後にボルゲーゼ家は挙げてローマに移ったとか。スペイン階段の上のトリニタ・ディ・モンティ教会の記録によれば、西暦1578年にはボルゲーゼ家はローマに移っていたらしい。

イタリアの首都ローマのボルゲーゼ公園の海馬の泉

そんなボルゲーゼ家のローマ教皇パウルス5世は、建物や街づくりに泉を多用したらしい。その泉への給水の為に、古代ローマ帝国皇帝アウグストゥスの水道の修復まで行ったんだそうな。上の画像はそんなパウルス5世ゆかりのボルゲーゼ公園にある海馬の泉なんだ。

枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼによる庭園の整備

ローマ教皇パウルス5世の就任は西暦1605年のことだった。その2ヵ月後には、教皇の気に入りの甥シピオーネ・ボルゲーゼは枢機卿になっている。その枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼこそが、今のボルゲーゼ公園となっている庭園を整備したんだそうな。

イタリアの首都ローマのボルゲーゼ公園に憩う人々

とはいえ、この場所はずっとボルゲーゼ家の邸宅の庭園として、人々に公開されていたわけではなかった。ところが、19世紀末にボルゲーゼ家は投機に失敗した。そして国家がボルゲーゼ家から荘園と芸術作品のコレクションを買い取ったのが西暦1902年のこと。その翌年にはローマ市が庭園を買い取り、上の画像のように人々が憩う公園とされたわけだ。

イタリア・バロックとボルゲーゼ美術館

他方、彫刻家ピエトロ・ベルニーニは奥さんの実家のあるナポリに住んでいた。そして西暦1598年に後のイタリア・バロックの彫刻家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニがナポリに生まれた。

その後、ベルニーニ一家はローマに移り、やがて父ピエトロは枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの為に働くようになる。そんな状況で、息子ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの保護を受けることになったわけだ。

そんな枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼゆかりのボルゲーゼ公園の中に、ベルニーニカラヴァッジョをはじめとするイタリア・バロックの芸術作品を多く集めたボルゲーゼ美術館がある。そのボルゲーゼ美術館に入る為に、私たちはここへやってきたんだ。

イタリアの首都ローマのボルゲーゼ公園にあるベルニーニゆかりのボルゲーゼ美術館

上の画像がボルゲーゼ美術館なんだけど、17世紀前半に建てられたボルゲーゼ家のヴィラ・ボルゲーゼの建物を修復したものらしいよ。今ではイタリア国家の所有だけどね。

ちなみに、このボルゲーゼ美術館のあるボルゲーゼ公園なんだけど、スペイン広場からスペイン階段を登って来ることもできるし、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のあるポポロ広場からピンチョの丘に登って入ることもできるみたい。


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