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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」
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- BC 3世紀、サン・ジミニャーノ付近の土地には古代エトルリア人が住んでいた。
- AD 397年、サン・ジミニャーノの街の守護聖人となる聖ジミニャーノが亡くなった。(街の名はその守護聖人に由来する。)
- AD 493年、東ゴート族の王テオドリックがラヴェンナに於いてオドアケルを下し、イタリア半島北部を掌握。アルプス以北-ミラノ-ボローニャ-ローマを結ぶ「エミリア街道」は、イタリアの動脈としての機能を失った。
アルプス以北-ミラノ-サン・ジミニャーノ-シエナ-ローマを結ぶ「フランチジェーナ街道」が、失われたエミリア街道に変わる新しい動脈となった。その結果、街道の町サン・ジミニャーノが成長した。
- AD 1148年、サン・ジミニャーノのドゥオモが献堂された。
- AD 1199年、ヴォルテッラの司教の支配を脱したサン・ジミニャーノが自治都市となった。
- AD 1253年、サン・ジミニャーノの聖女フィナが聖グレゴリウスの予言の通りに亡くなった。
- AD 1262年、今も街の城壁に残るサン・ジョヴァンニ門が築かれた。
- AD 1276年、特産の白ワイン「ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ」が文書に登場。
- AD 13-14c、サン・ジミニャーノの街が最盛期を迎えた。富を蓄えた商人たちは周辺の土地を購入し、貴族化した。彼らはステータス・シンボルとしての塔を築くことを競い合った。他方、ゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の争いが激化し、街の活力は削がれていった。
- AD 1300年、後に「神曲」を著したダンテが外交使節としてサン・ジミニャーノを訪問した。
- AD 1348年、ペストに襲われ、サン・ジミニャーノの街は衰退した。(その前年にペストはフランス南部マルセイユに上陸していた。)
- AD 1353年、サン・ジミニャーノがフィレンツェに従属することになった。フィレンツェは、サン・ジミニャーノをシエナに対する前線基地として利用した。
- AD 1468年、サン・ジミニャーノのドゥオモが完成した。
- AD 1497年、フィレンツェを統治していたサヴォナローラがサン・ジミニャーノのドゥオモで説教を行った。
- AD 1555年、フィレンツェがシエナを征服した。その結果、フィレンツェにとっての前線基地としてのサン・ジミニャーノの意義が薄れてしまった。その後、街は沈滞に陥り、新しい建物が築かれることは稀なこととなり、その結果として中世の塔が残ることとなった。
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