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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「バルセロナ街歩き (スペイン)」
カタルーニャの歴史とガウディ
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バルセロナとカタルーニャ地方の略年表
h05. 統一スペインの支配
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- 1556年、スペイン王フェリペ2世が即位。
- 1586年、イタリアのローマで教皇に拝謁した天正遣欧少年使節がバルセロナに上陸し、ポルトガルへと向かった。
- 1609年、スペイン王フェリペ3世がモリスコ追放を決定。スペイン南部アンダルシア地方のナスル朝のグラナダが陥落した後もスペインにとどまっていたイスラム教徒は、カトリックへの改宗を強制された。モリスコとはそんな改宗したイスラム教徒たちのこと。その中には隠れイスラム教徒も少なくなかったらしい。
- 1640年、30年戦争における戦費の増大に苦しむ中央政府の暴政に対し、カタルーニャの人々が反乱(「収穫人戦争」)を起こした。カタルーニャ副王サンタ・クロマは反乱に加わった人々によって、バルセロナで殺害された。
カタルーニャの要請によって介入したフランス王ルイ13世は、バルセロナ伯・王の称号さえも与えられた。
やがて反乱は終息したが、ピレネー条約によってカタルーニャ地方の北部はルイ14世太陽王のフランスに割譲された。他方、首都マドリッドの政府がカタルーニャの反乱にてこずっている間に、1581年からスペインのハプスブルグ家の支配を受けていたポルトガルが独立を回復していた。
- 1701年から1714年、スペイン継承戦争。スペインの王位継承権をめぐり、フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルグ家が戦いを繰り広げた。カタルーニャは、この戦争において、オーストリアのハプスブルグ家を支持した。
- 1714年9月11日、オーストリアのハプスブルグ家からも他の同盟国からも見捨てられたバルセロナが、ブルボン家の攻撃によって占領された。
新しく成立したブルボン朝スペイン王国の中央政府は、ハプスブルグ家についたカタルーニャに対して、厳しい政策を採った。自治権が奪われ、州政府や市議会が廃止され、中央政府の法律が押し付けられ、更にカスティーリャ語の使用までも強制された。
余談ながら、スペイン王となったブルボン家のフェリペ5世は、ルイ14世太陽王の孫にあたる。他方、現在のスペイン国王フアン・カルロス1世は、このフェリペ5世の子孫にあたる。
- 1715年、バルセロナの人口は 37千人だった。
カタルーニャとバルセロナ(スペイン)の略年表
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