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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「バルセロナ街歩き (スペイン)」
カタルーニャの歴史とガウディ
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バルセロナとカタルーニャ地方の略年表
h02. バルセロナ伯の時代
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- 801年、フランク王国のシャルルマーニュ(カール大帝)の息子ルイ(後のルイ1世敬虔王)の軍による 7ヶ月にもわたる攻囲の末に、イスラム教徒のバルセロナ総督サード・アッ・ルアイニーがフランク王国に降伏した。
ルイは西ゴート王国系の貴族ベーラ伯をバルセロナの総督とした。カタルーニャ北部は、フランク王国のヒスパニア辺境領(五つの伯領から構成)とされた。
- 828年、スペイン南部アンダルシア地方の古都コルドバを首都とする後ウマイヤ朝の貴族ウバイド・アッラーフの軍がバルセロナを包囲。しかし、ベルナルド伯によって撃退された。
- 850年、後ウマイヤ朝の部隊によるバルセロナ周辺への襲撃。
- 856年、イスラム教徒ムーサー2世の部隊がバルセロナを襲撃した。
ムーサー2世の祖先は、西ゴート王国系の貴族だったが、8世紀初頭のイスラム教徒のイベリア侵入の際にイスラム教に改宗していた。彼の一族はバヌー・カスィーと呼ばれるが、これはカシウスの子孫達という意味を持っている。
- 873年、多毛伯ビフレードがバルセロナ伯位を襲爵した。以後、彼は周辺に勢力を拡大していく。
- 878年、多毛伯ビフレード1世が、ヒスパニア辺境領全域の支配者として即位した。
ビフレード1世はイスラム教徒と戦って内陸部に領土を広げ、多くの修道院を築いた。
- 985年、後ウマイヤ朝の実力者アル・マンスールに率いられたイスラム教徒軍によってバルセロナが略奪された。
バルセロナ伯ボレール2世の救援要請にもかかわらず、王権が弱く、しかもノルマンの侵攻に苦しむカペー朝フランク王国からの援軍は来なかった。以後、カタルーニャは独立の動きを強める。
- 988年、バルセロナ伯ボレール2世は、フランク王国からの独立を宣言した。(但し、公式的には西暦1258年にアラゴン王ハイメ1世とフランス王ルイ9世との間に結ばれたコルベイユ条約によってフランスからの独立が確認されている。)
- 1023年、バルセロナの防衛のためにノルマン人の傭兵部隊が導入された。
- 11世紀、バルセロナの人口は 15千人に達していた。
- 1095年頃、スペインの伝説的な英雄エル・シド(本名ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール、1099年死去)がヴァレンシアに支配を確立した。
彼の娘は、バルセロナ伯ラモン・ベレンゲール3世と結婚した。
- 11世紀末から12世紀半ば、カタルーニャ地方が南に拡大した。この拡大した部分は、新カタルーニャとも呼ばれる。
- 1114年、バルセロナ攻撃部隊を率いて北上中だったムラービト朝のサラゴーサ総督が敗死した。
- 1115年、バルセロナ伯ラモン・ベレンゲールは、イタリアのピサ・ジェノヴァと同盟してマヨルカ島を占領した。
しかし、マヨルカ島に置かれたピサの守備隊がムラービト朝の軍に破れ、イスラム教徒がマヨルカ島を奪回した。
- 1131年、カタルーニャにおいて製鉄法が改善された。これは水力を利用して炉に空気を送り込むというもの。この鉄を利用して作られた釘などは、バルセロナの造船所(今のバルセロナの海洋博物館)でも使用され、その発展に寄与することとなった。後のレパントの海戦で活躍したガレー船もここで建造されている。
また、カタルーニャ産の鍛鉄がヨーロッパに輸出されることとなった。ミラノなどにおける甲冑製造においても、カタルーニャの鍛鉄が使われていたらしい。
カタルーニャとバルセロナ(スペイン)の略年表
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