東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「バルセロナ街歩き (スペイン)」

カタルーニャの歴史とガウディ

バルセロナとカタルーニャ地方の略年表

h04. カタルーニャの衰退

  • 1333年、アラゴン・カタルーニャ連合王国を農作物の記録的な不作が襲い、人々は飢饉に苦しんだ。

    以後、カタルーニャは次第に繁栄を失い始めた。

  • 1340年頃、バルセロナの人口は約5万人だった。

  • 1348年、アラゴン・カタルーニャ連合王国で、前年にフランス南部プロヴァンス地方港町マルセイユに上陸したペスト(黒死病)が流行。その結果として多くの人々が亡くなり、1350年頃のバルセロナの人口は、約2万人にまで激減していた。

  • 1356年、ペドロ1世残忍王統治下のカスティーリャ王国と、ペドロ4世統治下のアラゴン・カタルーニャ連合王国との間で戦いが起こった。

    ヴァレンシア付近での領土争いを背景とするこの戦いが終息したのは、1369年のことだった。

  • 1357年、アラゴン・カタルーニャ連合王国をイナゴの大群が襲った。

  • 1380年、カタルーニャ人の傭兵達によってギリシャの地に維持されていたアテネ公国とネオパトリア公国が、アラゴン・カタルーニャ連合王国のペドロ4世に献じられた。

  • 1387年、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王ペドロ4世が死去。彼はバルセロナで多くの建設工事を行った王だった。

    彼はランブラス通り近くに城壁を築き、更に王立造船所(今の海洋博物館)バルセロナの大聖堂海の聖母マリア教会(サンタ・マリア・デル・マール教会)などを建築した。彼が築いた建物の多くは現存し、ゴシック地区を代表する建物となっている。

  • 1388年、ギリシャにあったカタルーニャ人の支配地域であるアテネ公国とネオパトリア公国が崩壊した。

  • 1391年、バルセロナにおいてユダヤ人の虐殺が起こった。

  • 14世紀末から15世紀にかけて、カタルーニャで農民の反乱が頻発した。

  • 1410年、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王マルティ1世が死去。ここにビフレード1世の血を引くバルセロナ伯爵家の家系が断絶した。

  • 1412年、カスティーリャ王ファン1世の王子がアラゴン・カタルーニャ連合王国の王フェルナンド1世として即位した。カスティーリャ系トラスタマラ朝が始まった。

  • 1413年、バルセロナ伯爵家の血を引くウルジェイ伯ハイメ2世が、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王位を主張して反乱を起こした。しかし、フェルナンド1世の軍によって破られ、反乱は鎮圧された。

  • 1442年、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王アルフォンソ5世が、ナポリ王国を支配下に入れた。

  • 1422年、バルセロナの大聖堂が完成

  • 1456年、カタルーニャ議会は、4月23日を「サン・ジョルディ(聖ジョージ)祭」の日と定めた。

  • 1462年、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王ファン2世とカタルーニャ議会が対立し、10年間に及ぶ内戦が勃発した。

  • 1469年、アラゴン・カタルーニャ連合王国の王子フェルナンド(後のアラゴン・カタルーニャ王フェルナンド2世)が、カスティーリャの王女イサベル(後のカスティーリャ女王イサベル1世)と結婚した。

  • 1474年、カスティーリャ王位をイサベル1世が継承した。

  • 1479年、フェルナンド2世がアラゴン・カタルーニャ連合王国の王に即位した。ここにイサベル1世とフェルナンド2世の二人によるスペイン統治が始まった。

    余談ながら、あのマキャベリは、「君主論」において、このフェルナンド2世を高く評価している。

  • 1486年、フェルナンド2世によってカタルーニャに宗教裁判所が設けられた。

    同年、クリストバル・コロン(コロンブス)がカスティーリャ女王イサベル1世の謁見を求めていた。

  • 1492年、イベリア半島に残っていた最後のイスラム教勢力であるナスル朝の古都グラナダが陥落した。(スペイン南部アンダルシア地方古都グラナダは、世界遺産アルハンブラ宮殿で名高い。)

    ユダヤ人がスペインから追放されることとなった。しかし、フェルナンド自身、皮肉なことに母方を通じてユダヤ人の血を引いていたとの説もある。また、カスティーリャとは違って、商業の盛んなカタルーニャでは、ユダヤ人の追放は大きな経済的損失を招いたとも言われている。

    余談ながら、スペインから追放されたユダヤ人は、「セファラディータ」と呼ばれる。これはユダヤ人たちがスペインのことを「セファラッド」と呼ぶことから来ている。

    同年、コロンブスによって新大陸アメリカが発見された。

  • 1500年、コロンブスがアメリカで捕らえられた奴隷をイサベル1世に差し出した。しかし、女王は奴隷達を解放した。

  • 1504年、イサベル1世が亡くなり、カスティーリャ女王フアナが即位した。しかし、実質的にはその父親であるアラゴン・カタルーニャ連合王国の王フェルナンド2世がスペインを統治した。

    ちなみに、女王フアナはハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)の母であり、フェリペ2世の祖母にあたる。

  • 1515年、フェルナンド2世がナヴァラ王国を攻撃し、多大な成果を挙げた。

カタルーニャとバルセロナ(スペイン)の略年表


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