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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
パリに住んだ ・・・ つもりの 9日間 (フランス)
パリからロワール、ノルマンディー、シャルトルまで
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サン・ドニ大聖堂にあるフランス王家の墓所
-3. カール・マルテル (カロリング家)
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メロヴィング家フランス王家の始祖がクローヴィス1世であるならば、カロリング家の実質的な始祖はカール・マルテルだと言えるかもしれない。(下の画像はパリ郊外のサン・ドニ大聖堂にあるカール・マルテルの墓碑。)
中ピピン(ピピン2世)の庶子として生まれたカール・マルテルは、父の中ピピンの死後(西暦714年)に幽閉されていたにもかかわらず、西暦716年には幽閉を脱し、アウストラシア軍を率いてネウストリア軍を破り、全フランク王国の実質的な支配者になったんだ。
そして、カール・マルテルの死後、息子ピピン3世(小ピピン)はフランク王国の王になったわけだ。
カロリング家の祖先たちとカール・マルテルの年表
- 7世紀前半、フランク王国の分王国アウストラシアを牛耳っていたのは、宮宰の大ピピン(ピピン1世)だった。
- 656年、アウストラシア分王国の王シギベルト死去。その養子となっていた大ピピンの孫(大ピピンの息子グリモアルドの子)キルデベルトとシギベルトの実子ダゴベルト2世が王位を争った結果、大ピピンの孫キルデベルトがアウストラシアの王となった。
- 662年、アウストラシアの宮宰で大ピピンの息子グリモアルドが捕らえられて処刑され、ネウストリア王の息子がアウストラシア王となった。
この時点でカロリング家(大ピピンの子孫たち)の王位への野望は挫折した。しかし、大ピピンの娘ベガと司教アルヌルフの息子アンセギゼルから生まれた中ピピン(ピピン2世)はアウストラシアの宮宰としての実力を保っていた。
- 687年、中ピピン(ピピン2世)指揮下のアウストラシア軍がネウストリア軍を撃ち破った。その結果、中ピピンは全フランク王国の宮宰として認められた。
- 689年、中ピピン(ピピン2世)と側室アルパイダの子カール・マルテル誕生。
ちなみに、「カール」という名前は、メロヴィング家にもそれまでのカロリング家にも見当たらないらしい。その語源は、アングロ・サクソン語のケアルル Cearl (勇敢な兵士)ではないかと言われている。
- 714年、中ピピン(ピピン2世)死去。その庶子カール・マルテルが幽閉された。その後、ネウストリア軍と戦ったアウストラシア軍が敗北。
- 716年、幽閉を脱したカール・マルテル指揮下のアウストラシア軍がネウストリア軍を撃ち破った。
- 732年、アブデル・ラーマンに率いられてイスパニアからフランスに侵入したイスラム教徒軍(ジブラルタルから上陸して西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島を征服)を、カール・マルテルが撃ち破った。(トゥール・ポワティエの戦い)
カール・マルテルはフランク王国全土の支配者となっていた。
- 741年、カール・マルテルがパリで死去。彼の最後の称号はプリンケプス(君主)だった。
フランス王家の墓
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