東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

パリに住んだ ・・・ つもりの 9日間 (フランス)

パリからロワール、ノルマンディー、シャルトルまで

サン・ドニ大聖堂にあるフランス王家の墓所
-5. カトリーヌ・ド・メディチ (ヴァロワ・アングレーム家)

イタリアはトスカナ地方の街フィレンツェの名門メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディチ(フランス王アンリ2世の王妃)といえば、フランスの歴史では悪役と言ってもいいんだろうね。

フランスの首都パリの郊外のサン・ドニ大聖堂のフランス王家の墓所で見たカトリーヌ・ド・メディチの墓碑

というのも、サン・バルテルミー(聖バルテルミー)の虐殺の主役の一人だし、後のフランス王アンリ4世を毒殺しようとして自分の息子を殺しちゃったり ・・・、映画「マルゴー」でのカトリーヌ・ド・メディチは冷酷そうだよね。(女優は名演技をしていたということなんだろうけどね。)

でもね、このカトリーヌ・ド・メディチも可哀相な人なんだ。自分が生まれる数日前に父が亡くなり、母は自分を産んだ直後に亡くなり、フィレンツェのメディチ家は分家が継承し、フランス王位に就いた三人の息子たちは次々と亡くなって、最後はプロテスタント(ユグノー)のブルボン家のアンリ4世がフランス王位を継承するわけだ。

でも、上の画像に見るカトリーヌ・ド・メディチの雰囲気は、ちょっと想像と違っているよね。もっと神経質そうな姿を想像していたんだけどね。

フランス王妃カトリーヌ・ド・メディチ 略年表

  • 1519年、イタリアはトスカナ地方の街フィレンツェで名門メディチ家の嫡流に生まれた。

    曽祖父はメディチ家最盛期の当主だった大ロレンツォ、祖父はその息子で不運のピエロ、父はウルビーノ公ロレンツォ(あるいは、小ロレンツォ)。しかし、父の小ロレンツォは、カトリーヌが生まれる数日前に死去。(この小ロレンツォの死をもって、メディチ家兄脈嫡流男系が断絶している。)

    他方、母はフランス王フランソワ1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォベルニュ。しかし、その母もカトリーヌを出産直後に亡くなっている。

    同じ年、メディチ家の傍流の出身ながら後にトスカナ大公となったコシモ1世(その父は黒備えのジョヴァンニ)が生まれている。

  • 1533年、フランスのアンリ2世と結婚。

  • 1536年、スイスのバーゼルでカルヴァンの「キリスト教綱要」が出版された。以後、次第にフランスでユグノー(カルヴァンの教えに従うプロテスタント)が増加し、ローマの教皇に従うカトリックとの間の宗教対立が激化していく。

  • 1547年、フランソワ1世が亡くなり、カトリーヌの夫アンリ2世がフランス王となった。

  • 1555年、「ノストラダムスの大予言」を出版したノストラダムスをアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチが招待した。

  • 1559年、カトリーヌ・ド・メディチの夫フランス王アンリ2世が死去。カトリーヌの息子で15歳のフランソワ2世がフランス王となった。

    しかし、当時の宮廷を牛耳っていたのは、スコットランドの出身でフランソワ2世の王妃メアリー・スチュアートの伯父ギーズ公フランソワだった。

  • 1560年、フランソワ2世死去。その弟で10歳のシャルル9世がフランス王に即位した。

    カトリーヌ・ド・メディチは摂政となり、国政を牛耳ることとなった。

  • 1562年、カトリックのギーズ公一派がプロテスタント(ユグノー)を虐殺し、フランス宗教戦争が始まった。

  • 1564年、王母カトリーヌ・ド・メディチとフランス王シャルル9世が大巡幸に出発した。

  • 1572年、パリのノートルダム大聖堂において、カトリーヌ・ド・メディチの娘マルグリット(マルゴー)と、プロテスタント(ユグノー)でブルボン家出身のアンリ(後のフランス王アンリ4世)との結婚式が行われた。

    しかし、その直後にサン・バルテルミー(聖バルテルミー)の虐殺が起こり、多くのプロテスタント(ユグノー)が殺害された。カトリーヌ・ド・メディチは、事前に虐殺の了解を与えていたとも言われる。

  • 1574年、シャルル9世死去。アンリ3世がフランス王として即位した。

  • 1584年、カトリーヌ・ド・メディチのもう一人の生き残った息子で王弟のアンジュー公が死去。

    フランス王位の継承について定めるサリカ法典に従えば、王位継承権者の筆頭は、プロテスタント(ユグノー)でブルボン家出身のアンリ(後のフランス王アンリ4世)ということになる。

  • 1589年、カトリーヌ・ド・メディチ死去。

    同じ年に、カトリーヌ・ド・メディチの息子のフランス王アンリ3世も亡くなり、プロテスタント(ユグノー)でブルボン家出身のアンリ4世がフランス王となり、フランスの宗教戦争を終結させることとなる。


フランス王家の墓


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