東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

パリに住んだ ・・・ つもりの 9日間 (フランス)

パリからロワール、ノルマンディー、シャルトルまで

サン・ドニ大聖堂にあるフランス王家の墓所
-4. ピピン3世あるいは小ピピン (カロリング家)

カロリング家によるフランク王国の支配を実質的に確立したのはカール・マルテルだったけど、名実共にカロリング家の初代フランク王となったのは、この小ピピン(ピピン3世)だった。(下の画像は、パリ郊外のサン・ドニ大聖堂のフランス王家の墓所にあるピピン3世の墓碑。)

フランスの首都パリの郊外のサン・ドニ大聖堂のフランス王家の墓所で見たピピン3世あるいは小ピピンの墓碑

統治の初期においては、メロヴィング家のキルデリック3世を名目的な王としていたんだけど、西暦751年には小ピピン自らがフランク王国の王(教皇による戴冠は754年)となり、メロヴィング家の王キルデリック3世やその息子は修道院に幽閉されちゃったんだ。

小ピピンは西暦768年に亡くなった。でも、その継承者たる二人の息子の一人が、後にローマで戴冠して皇帝となるシャルルマーニュ(カール大帝)だったわけだ。

カロリング家の初代フランク王
ピピン3世(小ピピン) 略年表

  • 741年、カール・マルテル死去。彼の息子二人カールマンと小ピピン(ピピン3世)が、フランク王国を二分して支配した。

  • 747年、カールマンが出家し、イタリアのモンテ・カッシーノ修道院に引きこもった。以後、小ピピン(ピピン3世)がフランク王国全土を支配する。

    同じ年、小ピピンの息子シャルル(後のシャルルマーニュ=カール大帝)が誕生。

  • 752年、フランク人貴族たちの支持を受けた小ピピン(ピピン3世)がフランク王となった。

    名目的なフランク王だったメロヴィング家のキルデリック3世とその息子は修道院に幽閉された。

  • 754年、パリ郊外のサン・ドニ大聖堂(当時はサン・ドニ修道院付属教会)において、教皇ステファヌス3世の手により、小ピピン(ピピン3世)がフランク王としての戴冠を受けた。

    その教皇ステファヌス3世の依頼により、ローマに対して圧迫を加えていたランゴバルド王国と戦い、ラヴェンナサン・マリノ周辺の土地を奪い取った。

  • 756年、ピピンの寄進。ランゴバルド王国から奪い取ったラヴェンナやサン・マリノ周辺の土地が、小ピピンによって教皇領として教皇に寄進された。ローマ周辺のみを支配していた教皇が、イタリア中部に支配領域を広げることとなった。

  • 759年、小ピピンがイスラム教徒を駆逐して現在のフランス南部を制圧し、ガリア全土の支配者となった。

  • 768年、小ピピン(ピピン3世)死去。その息子たちシャルルマーニュとカールマンが王位を継承した。

  • 771年、カールマン死去。やがて皇帝となるシャルルマーニュ(カール大帝)が単独でフランク王国の支配者となった。


フランス王家の墓


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